載籍浩瀚

積んで詰む

『花束みたいな恋をした』

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 『花束みたいな恋をした』という映画を観た。基本恋愛邦画についてはあまり期待していない側の人間*1だったが、同じくそういう側の人たちから聞こえてきた触れ込みは概ね上出来であるという評のようで、これはチェックしにいかなければという気が芽生えたのだ。観た感想だが、なるほどこれはすごい。この映画は、普段から恋愛映画を見るようなカップルに捧げられたと同時に、物語や音楽を解することに命をかけているような、いわゆるサブカル人間*2にも捧げられていたのだ。舞城王太郎やたべるのがおそい、もしくはきのこ帝国といった固有名詞が主演の二人から溢れ出、ベッドの上の河出文庫や棚にささった二冊の全く同じ本などの細かい演出が全体にわたって施されている。そしてそんな彼らが社会という名のお風呂に溺れて感性を失っていく中盤は、そのリアルな質感もあいまって、直視できないものであった。でも私がこの映画で、すげえと感嘆したのはこのニッチな層に向けた細かな演出などではない。この映画の一番のポイントは、劇場に座っていた大多数の人が感じたように、最後のファミレスなのである。あそこがこの映画の全てと言ってもよく、そしてこの映画を特別にしたのだ。あの数十分のコマで、この映画はラブストーリーにおける運命を破壊し、そして現実における日常を運命に変えた。*3あの瞬間、この映画は間違いなく「エモく」なったのであり、劇場で座って泣いていたカップルの恋愛を特別なものにしたのではないだろうか。

麦と絹

 麦と絹は大衆の化身である。彼らはタッチの差で終電を逃し、明大前駅で出会った。これは別に運命的な出会いでもなんでもなく、実際に麦と絹と同じ場所同じ時間にもう一組のカップルが出会っている。彼らは徹頭徹尾大衆として書かれていて、それでいてパズルのピース同士のように趣味が噛み合った運命的な二人なのである。

 趣味。これが彼らにとってのつながりだった。始発を待つために入った飲み屋で押井守を見つけ意気投合する二人。目の前に座って映画好き(笑)を語りながら好きな映画に『ショーシャンクの空に』と『魔女の宅急便(実写版)』を挙げたカップルに向かって、彼らはきっと「押井守も知らねえなんて、こいつ『ショーシャンク』と『スタンド・バイ・ミー』の原作が一緒だってことさえ知らねえだろうな」って思ったはずなのだ。*4

  ともかくそうして彼らは出会った。話すうちに自分たちの趣味が天文学的な確率で近しいことを察していく二人が互いに恋愛感情を抱くのはそう遠くはない──そういう風に物語は展開していく。ラブストーリーで恋愛が展開されるときの起点として、ひとめぼれというのがあげられる。ふとした仕草であったり、もっと直截的に顔やスタイルがどタイプだったりして起こりうるこのひとめぼれだが、彼らにとってそのきっかけが互いの趣味だった。

 この時の彼らは間違いなくサブカルチャーに淫していた。彼らは大衆の一人として、サブカルという自分が自分でいられる場所で何か特別なものになろうとしていたのだ。確かに彼らは物語の感想を共有しなかったかもしれない。*5でも彼らは物語の世界観を共有していた。確かにじゃんけんだとかガスタンクとかで痛々しく自分たちは特別であると錯覚したかもしれない。でも麦は自分が感じたことを表現しようとして、絹は自分が好きなものに正直でいようと願った。この演出をサブカルというレッテルを利用とした凡人を描くことによる一般大衆批判だとみてしまうのなら、それこそそいつは今村夏子の作品を読んでも何も感じないような、かわいそうな人なんだろうなと思わざるを得ない。*6もっと言えば彼らが本当にサブカルチャーを愛していたと表現しようとしていたのは小道具を見れば分かるのではないか。序盤で彼らが出した固有名詞は間違いなくメインストリームにあるコンテンツとは言えないものだったではないか。彼らは東野圭吾住野よるで満足せず、円城塔佐藤亜紀に走った。*7サブカルに拘泥しようと『ゲームの王国』の単行本を麦に押し付けた。そうやって邦画にしては珍しく画面めいいっぱいに気を張った演出を、しょうもないありきたりな批判で無視してしまうのは非常に悲しく思う。*8

 そうやって趣味を通じて二人だけの世界観を形成した彼らの恋愛は、きっと特別だった。それは普通の恋というよりも、恋愛小説や恋愛映画で描かれる運命的なものだった。社会に溺れてしまうまでは。

 ファミレスでのカタストロフ

 さて彼らの特別だった恋愛は社会に揉まれてあっけなく潰えた。徐々に徐々に社会という病巣に蝕まれていった麦を見るのは忍びなかった。彼が「もう自分は今村夏子の小説で何も感じることができなくなった」と絹に言い放ったシーンは下手なホラーよりよっぽどホラーだったし、社会なんてくそったれと心の底から思った瞬間である。

 そして彼らは別離を決意する。友達の結婚式の後、自分たちの恋愛を楽しかった思い出として処理し次へ進もうとする。彼らは出会いのファミレスへ赴いて、麦がいよいよその話を切り出そうとする。そこで彼らは見てしまったのだ。あの頃の自分たちと同じように色気のないスニーカーをつつき合いながら趣味を語らい、大衆とは違う特別を装って、そして特別な恋愛に落ちていく瞬間を。そして彼らは心の底から気づいてしまったのだ。自分たちは特別ではなかったと。平凡でありきたりな、そこら中にあふれたラブストーリーを送ったのだと。でもそれは本当にそうだったのだろうか。彼らは昔の自分たちの姿を見てそして自分たちが特別じゃなかったと気づいた、それだけだったのだろうか。この後麦は絹に向かって結婚ならうまくいくと言って、そして二人は自分たちの輝かしかった思い出をリフレインしていく。リフレインしていくうちに絹は少し麦のプロポーズに心揺れたような表情を見せる。それほどに彼らの最初の数年は、特別だったではないか。スクリーンを見ていた私たちだって、これは正真正銘のラブストーリーだって思ったはずなのだ。

 でも麦も絹も結局は二人して別れることを決意する。この心変わりに、この映画の全てが詰め込まれているように思えてならない。彼らは昔の自分たちを目の前にして気づいてしまったのではないか。特別は平凡で、でも平凡な恋は特別であるという、どうしようもなく当たり前の事実に。だからこそ彼らは次の特別な恋に進めた。そしてまた再会したとしても、互いを応援することができたのではないだろうか。

 そうやって坂元裕二はこの映画を見に来たカップルの背中を強く押したのではないか。運命を破壊することによって、日常的な恋愛を奇跡に仕立て上げる、これこそが脚本家の真のねらいであると思えてならない。そしてそれはこのタイトルにも秘められていると思う。

 

「花束」とはなんだったのか

 この映画のすごいところに、固有名詞と細かな演出というのを挙げた。そしてそのメインストリーム脇くらいの固有名詞をバンバン投入した*9中で、メインストリームど真ん中の固有名詞がひとつだけ出てきたのを覚えているだろうか。

 それはSMAPである。

 そしてあろうことか麦と絹は、SMAPによるスマスマ最終回について言及したのだ。スマスマ最終回、それは彼らの代表曲であり、国民的楽曲である「世界に一つだけの花」が地上波で流された、最後の回なのだ。

 世界に一つだけの花というのは、ありていに言えば、みんなが特別なんだというのを歌った曲である。

 この映画による花束とは、もともと特別なオンリーワンであった麦と絹を束ねた特別なもので、でもそれは麦と絹以外も等しく普遍的に特別なのだ。

 結局この映画はどんな花束=カップルだって特別なんだっていう、めちゃくちゃな恋愛賛歌ではなかっただろうか。フィクションみたいな出会い方をしなくたって、彼氏がヒーローで彼女がヒロインじゃなくたって、すべての恋が特別なんだという、甘酸っぱくて反吐がでるような、そんな映画であるように思えてならない。

*1:本作における麦や絹のように

*2:あるいはオタク

*3:元々日常に恋愛という言葉がないサブカル人間には関係ないという説もあるが、それはそれ

*4:個人的には好きな映画に『ショーシャンク』や『実写版魔女宅』を挙げる人間は一周回ってめちゃくちゃマニアなのではとも思わなくもないが、そんなことはどうでもいい

*5:というか物語中で共有しなくても裏でしてただろという気がする。誰が恋愛映画でオタク二人による今村夏子の強火感想会を見たいんだという話である

*6:当たり前のことだが、サブカルに淫することができるのは一部の特別な人間だけと思っているのならばそれは厨二病的うぬぼれでしかない。どんな人間だって受け入れるからサブカルチャーが形成されるのである。

*7:確かに彼らの本棚はヴィレヴァンにあるような本棚だったかもしれないが、少なくとも麦も絹も物語を愛していたのは間違いない。そもそも大衆はドラマや映画の原作以外の本を買っても読まずに放置する。俺は詳しいんだ。

*8:時がたつにつれて二人が例に挙げた固有名詞がメインストリームに寄っていった演出とか、めちゃくちゃ決まってたと思う。『君の名は。』と『シン・ゴジラ』の名前が出た瞬間に彼らの恋愛は終わったなって思った人がいたはずなのだ

*9:ここら辺の感覚は鋭いのでやっぱりこの映画の演出家にはガチのサブカル野郎がいると睨んでいる