載籍浩瀚

積んで詰む

2022年上半期読書記録

 道中では忙しく感じたものの、振り返って見れば緩やかだったような気もする上半期。その期間中に読了した本の中で、新しく読んで感銘を受けたもの、再読により理解を深め評価を改めたもの、あるいは再度その完成度の高さに戦いたものを集めた。

 長編・短編十五作ずつ、散らばってしまった記録を掻き集めるように並べた。今回も今回とて、列挙する順番は、これら作品の完成度となんら関係しない。しかしだからといって、それは無意味にはなりえない。

長編

補記
  • エスケンス『過ちの雨が止む』は上半期に出た新刊ミステリの中でも最高の収穫だった。青春小説として、ハードボイルドとして、本格推理小説として、それぞれが達成すべきハードルを軽々と超えていった著者の代表作。他人の人生を追うことは、自身の人生と向き合うことでもある。ただし読む際には必ず『償いの雪が降る』を読んでからにして欲しい。
  • 小川哲『地図と拳』は「ペンと剣」*1のモチーフをそのまま世界大戦に落とし込んだ大作。全体を貫く構図の太さはいうまでもなく、細部を見ても搦手を用いた策謀劇や地図に魅入っていく人物の大河としても読めエンタメ性も高い。勿論、軍部とその周囲を描いた力強い戦争文学でもある。
  • ブレイク野獣死すべし、ロスマクの『ギャルトン事件』、ピーターズ『死体が多すぎる』はこの春から始めた古典ミステリを読む読書会での収穫。三者三様に学びがあった。ブレイクはその手記から始まる構造が素晴らしく、ロスマクはミステリを客観視するのにこれほどふさわしい題材はないだろう。ピーターズについては舞台とミステリの融合に膝を打ち、そして整った舞台だからこそ繰り広げられたそのロマンスを楽しんだ。
  • ミステリを除いてしまうと、そう多くの国内新刊小説を読めたわけではないが、宇佐見りん『くるまの娘』現代文学という蜃気楼のようなジャンルに名を刻んだ文句なしの一冊だろう。ただでさえ情感的な文章が、物語が収斂していくことで鋭さを増していく最終盤の凄まじさといったら言葉にならない。張り詰めていく文章は最後にある境地に達して、ふっと弛緩する。一方で乗代雄介『パパイヤ、ママイヤ』は正統派なひと夏のガールミーツガールもの。家族に悩みを抱えた女子高生ふたりが、少しずつ世界の視野を広げていく爽やかな青春小説の快作。彼の文章--特に会話文--は、宇佐見とはまた一味違ったポップな切れ味に満ちている。
  • 青春小説といえば、今まで読めていなかった綿矢りさ蹴りたい背中には瞠目した。誰にも決めつけられたくないけれど、周囲に認めてはもらいたいジレンマを青春として捉え、その狭間に溜まった迸る感情を描くという観点でここまで成功している作品はそうないだろう。また青春の一瞬の感情を切り取るという点では現代短歌集『玄関の覗き穴から差してくる光のように生まれたはずだ』も勝るとも劣らない。「夕映えのペットボトルのサイダーをあなたの喉がぶつ切りにする」のような一瞬の情景を捉えたカメラ的な作品から、「さてここで何を叫べばマンションのすべての窓がひらくでしょうか」など心情に迫った歌まで多種多様に収録しており、読者を観念に埋もれた「あの夏」へ引き摺り込む。
  • その面白さに我を忘れ、没頭してしまうことが稀にある。そしてウィアー『プロジェクト・ヘイル・メアリー』はまさにその部類の作品だった。ファーストコンタクトモノの面白さと科学実験SF(そのようなものがあるのかは知らないが)の面白さが詰まっている。ネタバレに対して過敏な作品になってしまっているため*2多くは語らないが、ただただ面白い作品--冒険にハラハラドキドキし、二転三転するプロットに振り回され、気づけば主人公たちを応援してしまうような--を読みたければ、今はこの作品を手に取れば良い。
  • 一方で、夜毎読むのにふさわしい作品というものもある。たとえば『動物奇譚集』はまさにそうで、動物にまつわる掌編が36編収録されている。それもユーモアに溢れたものから、ホラーテイストなものまで多種多様な作品が集まっているため、決して飽きがこない名掌編集になっている。
  • ちびちびと読み返している京極堂シリーズも、『絡新婦の理』まできた。「あなたが--蜘蛛だったのですね」と推理小説におけるあやつりと暗合を、小説として極北まで持っていった『絡新婦の理』が京極ミステリのひとつの到達点であることは論を俟たないが、しかし再読の末に個人的には鉄鼠の檻を彼のベストワークとして推したい。『鉄鼠の檻』で描かれる宗教という檻が、個人に対しどう働きかけていったのか。これは間違いなく京極夏彦にしか描きえない小説であり、究極の宗教ミステリである*3。森の奥にひっそりと佇む寺院、その外界から閉ざされた静謐さ、それを容易に想起させる筆力には脱帽の他ない。
  • 再読といえば、昨年からこれまたちまちまと法月綸太郎の再読も行っている。氏の作品は古典本格を解体し、問題意識を突き詰めて再構築することで成り立っているが、『二の悲劇』では、記号化されがちな推理小説の手がかりをデコードしていくことに挑んでいる*4。その道中であやつりを一次元から次元へと進化させ、作品が帰趨した果ては、奇しくもコード化を極めたクイーン『ダブル・ダブル』だったのではないか。
  • そして新本格が漂着した先が、『月灯館殺人事件』だった。新本格以後濫造された本格を断罪し、さらには断罪するような作品--つまりは本作--すらも含め、それすら傲慢/怠惰/無知/濫造/盗作/強欲/嫉妬の成れの果てであると指摘した。ミステリと向き合うことをやめてはならない。ジャンルというものはそういうものであり、わたしたちには幸いなことに思索の手がかりがいくつもある。そのひとつにして金字塔が『論理の蜘蛛の巣の中で』だ。

 

中短編
補記
  • ここまで思ったより長々と書いてしまったので、簡単にまとめる。
  • 「君のクイズ」は問われ答えるというクイズの形式を余すことなく使い尽くしたクイズ小説。それでいてその競技性の側面を描いたスポーツ小説であり、ゆえに競技を通して自己を探求していく小説でもある。今期読めた新作中編のなかでもベスト、どころかATB級の一作。「コカコーラ・レッスン」も言葉を発見していくことで、自身に潜むエッセンスを探っていく探求型の青春小説として楽しめる。
  • 「十九歳の地図」はどうしようもない衝動の発露を地図上に爆弾を仕掛けていくことに喩え、繊細な抱えきれなさを短編の長さで表現した名品。
  • 小説の構図に挑んだ作品として「七番目の出来事」ノヴァーリスの引用」を挙げる。パワーズは短い中にいくつものマジックを仕込み、作品全体を通じてそれを演じた。奥泉の方は推理を展開させていくことと物語を展開していくこと、それに思考を繰り広げていくことを重ね合わせ、やはりそれ自体がマジックになっている。しかし奥泉はそのマジックを最後まで披露しない。仕込みだけを見せ、舞台から降りる。未だに理解はできていないが、想像を超えた想像を見たような錯覚に陥る短編だった。
  • アンチミステリ的とまで評される奥泉の作品に対し、素直に面白かったといえるジャンル小説として、ミステリのサボテンの花とSFの「百年文通」があった。どちらもそれぞれのジャンルを知り尽くした作者たちが、救われるような終着点まで連れていってくれる。
  • 一方でジャンルを究めようとした「二〇二一年度入試という題の推理小説も素晴らしい。本作や表題作の「入れ子細工の夜」は本格ミステリのゲーム性を捉えるために、階層構造をメタ的に増やしていき、犯人当てや多重推理の可能性を暗示している。この思索がどこに辿り着くのかはまだ分からないが、それでも進み続けて欲しいと思う。
  • 初読勢では最後の「最後の展覧会」は、創作をすること、創作された芸術、そしてそれを信仰した「生」の物語。自分はこういうのに弱い。
  • 「真実の10メートル手前」以後の六作は短編ミステリを学ぶために手に取った再読たち。ATB「真実の10メートル手前」、ようやくその凄さと向き合えた「横しぐれ、本格が小説を支えていた第三の時効に、多くの読者がミステリに求めるであろうサプライズが詰まった連城の「花虐の賦」。直前に置かれている「除夜を歩く」が好きすぎて自分の中で眩んでいた「蕩尽に関する一考察」は有栖川短編の中でも頭抜けた一作だと認識できたし、「Yの誘拐」では連城の「過去からの声」という補助線を引いたときに、誘拐短編としての完成度がクリアに浮かび上がったのが記憶に新しい。

 

 下半期は激流に身をとられることなく、軽やかに交わしながら、もう少しレビューとかをアウトプットできるといいなと思います。

 

 

 

 

 

 




 

*1:ここでの「ペンと剣」は人口に膾炙した用法と、原典で用いられていた意味、その両義的なものだ。

*2:某ミステリにおけるゾンビみたいな部分がある。

*3:巷で三大宗教ミステリと呼ばれる作品群がある。キリスト教を描いた『薔薇の名前』、仏教を描いた『鉄鼠の檻』、イスラム教を描いた『火蛾』の三作を指すが、この三作は『鉄鼠の檻』を軸に語ることができる。この観点からも本作の宗教世界を描いたミステリとしての凄まじさが見えてこよう。

*4:この部分の経緯については『本格ミステリの現在』収録の巽昌章「『二』の悲劇-法月綸太郎論」に詳しい。