載籍浩瀚

積んで詰む

社会の死角/沢木耕太郎『人の砂漠』

おそらく、人は誰しも無垢の楽園から追放され、「人の砂漠」を漂流しなくてはいけないのだ。——沢木耕太郎

 個々人が属している社会には、それぞれに特有の死角が存在する。たとえばわたしの社会では、ロシア領の近くで漁を営む人々の社会は死角になっていた。一方でロシア領の近くで漁を営む彼らにとっては、東京という大都会で、ミイラになった兄の死体とともに暮らしていたおばあさんの生活は死角になっているだろう。当然、今わたしが営んでいる生活が死角に入っている社会も世の中にはあるだろうし、そしてその社会のことをわたしは知らない。

 さて死角とは、視野に入らないから死角なのである。その存在にスポットライトを当てることができた時点で、そこはもう死角ではない。ではわたしたちは、いかにして死角を照らすのか。その問いに答えるのが沢木耕太郎によるノンフィクション短編集『人の砂漠』である。沢木はあとがきで、わたしたちの社会を渺渺とした砂漠にたとえた。その砂漠で、沢木は砂丘の裏側にたたずむ人々を訪ねていく。影なのか、はたまた蜃気楼か、なんらかの現象によって偶然沢木の目に入った手掛かりをもとに、彼は砂漠を旅していく。それが『人の砂漠』である。

 本書には八つの短編が収録されている。一体のミイラと奇妙なノートを遺して亡くなったおばあさんの話。元売春婦など、大多数の人々の死角においやられた女性により形成されたコミュニティの話。本島よりも台湾のほうが近い与那国島に住む人々の話。北方領土返還に口を濁す、ロシア領の近くで漁を営む人々の話。鉄屑やリサイクル紙などを取り仕切る「仕切場」で働く人々の話。相場師の夢と彼らに残った山河の話。天皇に対して怒りを直截ぶつけた犯罪者たちの話。そして、八十になって町全体を詐欺に遭わせた老婆の話。

 沢木はこれらの話の入り口で、「なぜ」を問う。なぜおばあさんはミイラとともに暮らしたのか。なぜ北方領土返還に口を濁すのか。なぜ詐欺に走ったのか。わたしたち読者もなぜと問いかける。ではなぜ、「なぜを問う」のか。それはそれがわたしたちの死角にあるからに他ならない。

 一度問いを立てたら、沢木は真摯にその問いと向き合った。沢木は、彼の死角に対して、そこが死角であることを強く認識してから目を向けた。そこが死角であったことを逆手に取り、外界に位置するものとして丹念な事前調査とつぶさな聞き込みを重ね、死角に像を結んでいく。立体的に、中立的に、それが実像になるように沢木は調査を進める。彼は像を結ぶことが、人の砂漠ですれ違うことだと気づく。すれ違ったしるしに沢木は文章というケルンを積み上げた。

 死角の存在に気がついたとき、わたしにはしばしば考え込む癖がある。そしてそれはわたしが推理小説というジャンルが好きであることと、どうやら不可分ではないらしい。なぜなら推理小説とは、死角にライトを当てる小説としての側面を持っているからである。

 この本を読んで、わたしは八つの死角を発見した。しかし依然として、わたしの社会では霞んでいるままだ。この霞を払う方法を、わたしはまだ杳として知らない。