載籍浩瀚

積んで詰む

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

 レビューにも紹介にもなっていない、インターネットへの壁打ち記事です。

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 まじもんの傑作。名前が自由であることや、独特な文体から小説、あるいは世界の形式をどうのこうのと凄さを言語化することはできてもーーとはいえ自分には手に負えないーーこの小説の面白さはなかなかどうも言語化できそうにない。

 読んでいる最中、ずっとなんじゃこれはと慄き続けていた。ポップ文学と呼ばれていてーーたしかにポップで文学ではあるーーでも若者言葉とか流行りとはちょっと違って、とはいえ文学にしてはかしこまっていない。お堅い「文学」というよりは、ついつい「エモい」と評してしまいそうになる程度には、登場人物たちに潜む物悲しさに共鳴してしまう。時折見せる真剣さに、誰も付き合ってくれないからこそ湧き出てくる若干の気だるさも相まって、やっぱりエモい小説だなと思う。そういうポップさだ。

 というか、表現ってこんなに自由で良いんだよな。プリンに醤油かけて食べるみたいな、ぱっと見食い合わせ悪そうには見えるのだけれど、案外いけると思えるラインを見極めることができれば、そのくらいは独創的でいい。もちろんこのラインの見極めがあまりにも至難の業だから、そう簡単には自由な表現なんてできないのだけれど、だからこそ出会えたときの嬉しさは格別だ。

 ここまでありふれた言葉を連ねてしまっていて不甲斐なく思ってはいるけれど、気にせずここからも連ねていく。内容もこれがまた良いんだという話をするために。

 第一部で登場するキャラウェイの話は、物語のなかで起こっている現象としての意味はよくわからなかったのに、ただただ悲しくて泣きそうになった。それと第三部でギャングたちに、「詩」を教えるところも素晴らしい。その「詩」が、いわゆるポエットかどうかもよく分からないところも好みだ。禅問答みたいなやりとりは、なぜそこでその言葉が出てくるのか、やはりまったく分からないのだけれど、でも真剣さは伝わってくる。誰も相手にしてくれない本気がそこにはあって、でも空回りはしたくないという意地も感じる。

 この小説を読むのに、特に素養は必要ない。優れた感性も、言語能力も必要ない。作者の飛び抜けた素養、感性、言語能力によって、日々を過ごすなかでよぎる感情が文体に詰め込まれているから。読者はその感情の迸出を、文章を通して受け取るだけでいい。