載籍浩瀚

積んで詰む

村上春樹『風の歌を聴け』

 数年前、村上春樹のレビューでもすれば自分も小説を読めるようになるのではないかと思って書いた雑文です。

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 世界はこんなに騒がしいのに、自分の周りは寂寞としている。こういう時、僕は本に寄る辺を求める。何も考えずに読める本がいい。だから僕は村上春樹の『風の歌を聴け』を本棚から抜いた。

 村上春樹といえばなんとなく意味の分からないイメージがある。あとめちゃくちゃやれやれって言ってるイメージも。後者はともかく、前者のイメージは正しいと思う。アメリカ文学ーー特に現代ーーに強い影響を受けているらしく、スタインベックとかヴォネガットとかの作品群に似てるらしいが、それについては不真面目な読者なのでよく分からない。*1

 まあそれでも小説の雰囲気がアメリカっぽいことは断言できる。作品の主な舞台が「ジェイズ・バー」と呼ばれるバーで、DJによるコメディカルなラジオがたびたび挿入される。上澄みでしかないが、やっぱり日本的というよりは欧米的、特にアメリカンなものを感じる。(舞台設定もバブル前だし)

 でもそれは雰囲気であって、じゃあ内容はどんなのだと言われると、これがさっぱり分からない。そもそも物語の「結」の部分がよく分からないのだ。何なら「承」も「転」もよく分からない。あるのは〈僕〉と鼠の出会いという「起」の部分だけで、しかしそれさえもこの小説の「起」ではない。ただこの感覚は正しいらしく、作者本人も「最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなった」と述べているらしい。

 このようにつかみどころがないのは間違いないが、じゃあつまらないのかというとそれも違うのだ。間違いなく面白い。ポップな文章と巧みな語りで読者を引き込むのは、さすが村上春樹だとしか言いようがない。それにつかみどころがないなりにしっかり楽しませてくれる。

 まずいきなり〈僕〉の文章談義から始まる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 この一文を引き金に、約三ページくらい〈僕〉の文章への苦悩が語られる。これは作者本人の文章論らしい。この一節を書くためだけにこの本を書き上げたーーそれでデビューして今やノーベル文学賞候補だーーというほどに気合が入ってるだけあって、読み終えた後もこの一節の印象は深い。

 他にも鼠と小説談義を始める5節や、クールに生きたいと考えた時代を回想する30節、嘘について不思議ななぞかけが書かれた34節などを経て全40節でこの本は幕を閉じる。

 意味が分からないから教訓もあまりない。*2だから何も考えずに読むことができる。何より短いから手軽に読むことができるし、普段本を読みなれてなくても、文章が勝手に読ませてくれる。読者は目を滑らせるだけでいい。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。

 僕は安心して世界から切り離され、読書にいそしむことができる。

 

 

*1:いま思うと、スタインベックヴォネガットも現代米文学といっていいのか微妙であえる。しかも例に出すには、もっと相応しい作家がいくらでもいる。なぜこの二人を選んだのか、いまや神のみぞ知るといったところだ。

*2:かなり喧嘩を売っているなとも思うけど、ここについてはいまもそう思っている。この小説はその上辺の空虚さこそが読者への最大の救いなのだ。