載籍浩瀚

積んで詰む

2023年下半期読書録

 いろいろとせわしない昨年だったが、なんやかんやここまでたどり着いた。今年は、よりせわしなく、全身全霊をかけるべきことが多くなる予感がひしひしとしているが、まあなんとかなると信じて。

 ということで2023年下半期に読んだ本のうち、長編10冊ならびに短編10本を紹介する。列挙される順番は決して優劣によるものではない。

 

長編

 

  • 下半期に読んだ一冊として、なんといっても外せないのは佐藤究による新作長編『幽玄F』だろう。ひとりの青年の半生を描いた青春小説として本作は目をみはる力を持っている。漠然とした夢を叶えるために一生を賭す。かれの夢は一種の呪いだ。自身でもなにがかれを満足させるのかが不明瞭で、それでも自身を納得させるために運命を手繰り寄せていく。
  • 『幽玄F』と同じく個人の半生に焦点を当てていて、しかしカメラの位置が違うのが宮内による『ラウリ・クースクを探して』だ。ミステリ的な面白さもありつつ、しかしその根幹にある技術、革命、そしてそれに翻弄された少年たちの物語がとにかく心を掴む。大きな歴史のうねりがいかにしてひとりの人生を狂わせたか、それをルポ形式で活写していく。
  • この二作を極限まで突き詰めていったのがオースターによる『ムーン・パレス』と言っていい。目的を失い、セントラルパークにて身をやつすあたりの描写には読んでいてひりつきが止まらない。なにも掴みようがない状況というのを、ここまで書くことができるのかと唸らされた。
  • 「小説を書くこと」を書き続けている乗代雄介が、会話を書くことにフォーカスしたのが新作『それは誠』である。修学旅行の最中のちょっとした冒険をかいた青春小説としても一級だが、しかしこの小説を読むときには、会話を書くとはなにかという点に想いを巡らしたい。小説では、書き分けの難しさから三人以上の会話が避けられる傾向にある。しかし鼎談という言葉が用意されているように、日常に三人以上の会話はありふれている。小説が日々の写し絵ならば、避けては通れない問題だ。本作はそこに挑んでいる。
  • 同じく小説を書くということに挑み、さらには小説を掌握しようとしたのが町屋良平による野間文芸新人賞作品『ほんのこども』である。町屋は小説を掌握するために、文章を徹底しようとした。しかし作品を見るに、かえって翻弄されているのではないかということが窺い知れる。その書き手と書かれるものの間に見える攻防戦にあるなにかを、わたしはまだ読み解けていない。ただなにかがあるということだけが読めたのだ。
  • ウィンズロウのデビュー作『ストリート・キッズ』は作者らしい一分の隙もない高品質な私立探偵小説だ。失踪人を探しもとめるという私立探偵小説のテンプレートをなぞる構造によって書かれてはいるが、挿話のキレと無駄のなさがずば抜けているからか、その様子はただの私立探偵小説にとどまらない。たとえば徐々に探偵として一人前になっていく主人公の様子は、少年が青年へと責任を持った存在に変貌していく成長小説としても読める。
  • 一方で、少女が強制的に責任を負わされていく青春小説がホリー・ジャクソンによるピップ三部作の最終章『卒業生には向かない真実』である。探偵行為に伴う責務と少女の成長を重ねて書いていた本三部作は、行きつくところまでたどり着いた。一瞬一瞬をかけがえのないものとして書くのが青春小説の肝だとすれば、本作は青春ミステリとして、ポイントオブノーリターンを書ききった傑作だ。
  • 青春小説の、その戻れなさを書いた秀作と言えば辻村深月による『島はぼくらと』もそうだ。「今」は「今」でしかないという単純な事実を、少年少女がどう受け止めるか。そして「今」の先へ進むことができるのか。「今」の美しさを残酷にも描きながら、それでも先に進む彼ら彼女らのたくましさに勇気づけられる。辻村小説のなかでも、推したい一冊がまた増えた。
  • 今年はミステリ業界がざわつくことが多かったが、その嚆矢となったのが〈百鬼夜行〉シリーズ新作刊行だったのは論を俟たないだろう。その『鵼の碑』もたしかにすごかった。しかしここでは新作刊行に合わせて読み、そしてレビューもした『塗仏の宴』を取り上げたい。詳細な読みは所属しているサークルでのレビュー*1を参照していただき、ここでは小説の構造とはここまで美しく組み立てられるものかと感服したというまでにとどめておく。

  • ミステリを読む・書くというので、いかに推理をしないかという問題意識を抱えた下半期だった。その解決策のひとつとして、倒叙ミステリというものを考えていた。すると倒叙コンゲーム性の由来や倒叙が取る構図について踏み込みたくなった。その倒叙の構図という点で、もっともチャレンジングなことをやっている作品が石持浅海『君の望む死に方』だろう。こちらも詳しくはレビュー*2を参照していただきたい。本作では探偵というものを一段上の存在にすることで、推理という作業を抹消できる可能性を感じさせてくれた。

  • 下半期、ほかには『ハンチバック』、『ぼくは勉強ができない』、『恋の幽霊』、『造花の蜜』などを楽しんだ。また『夏と冬の奏鳴曲』読書会主宰を通して、一段とミステリへの見通しが立ったようにも感じている。エラリー・クイーンという圧倒的な存在をどう超克するか、ミステリ作家は挑み続けなければならない。

短編

  • 「君が手にするはずだった黄金について」小川哲
  • 「アスモデウスの視線」初野晴
  • 「だるまさんがかぞえた」青崎有吾
  • 「命の恩」米澤穂信
  • 「或るスペイン岬の謎」柄刀一
  • 「春の章」古野まほろ
  • 「いつになったら入稿完了?」阿津川辰海
  • 「三人書房」柳川一
  • 「パノラマ・マシン」呉勝浩
  • 「最後の一冊」大倉崇裕

 

  • 下半期で圧倒的に面白かった短編集は、またしても小川哲の『君が手にするはずだった黄金について』だった。そのなかでも特に好きなのが表題作の「君が手にするはずだった黄金について」である。小川の短編力は、はっきりいって異常だ。読者に寄り添う力が強いからこそ、序盤から読み手を作品に引き込むことができる。それが小川作品の、特に短編の強みなっている。時流、そのなかでも「他人の見方」を捉える能力が高いのだろう。本作は、そして本短編集は、その能力をいかんなく発揮した凄みのある作品集である。
  • 下半期に入り、ぽつぽつと〈ハルチカ〉シリーズの読み返しを始めた。それは青春ミステリと向き合うためであるが、あらためて初野晴の技巧の高さに驚き続けている。学生がその箱庭から一歩先へと行く手段としてミステリを組み込んでいる本シリーズでは、たびたび怪作が生み出される。「アウモデウスの視線」もそのひとつだ。魅力的な日常の謎を解くと、必然的に学生の外の世界を見せつけられてしまう。箱庭の外にも、世界は広がっている。そこはだれかが守ってくれるような場所ではなく、たびたび割り切ることのできない決断を迫られる世界なのだ。
  • 下半期ベスト短編集を挙げるとすれば、真っ先に心当たりとして挙がるのが青崎による『地雷グリコ』だ。そのエンタメ性の高さは、今年一年どころかここ数年を振り返っても群を抜いている。ただただ面白い頭脳バトルで、そのコンゲームはもはや異能バトルの域にまで達している。そのなかでも気に入った一作が「だるまさんがかぞえた」だ。達成すべき条件のハードルの高さ、それを踏まえた一歩目の衝撃、そしてそれらを鮮やかにこえていくラストと、パズルのようにきれいにはまっていく伏線たちには脱帽だ。
  • 今年も年末ランキングを席捲してしまった米澤の『可燃物』からは「命の恩」を推したい。どの作品もよくできていて甲乙つけがたいが、「命の恩」はある程度古典的な真相の、その隠しかたが巧みであるうえ、問いの視点を変えることで真相への説得力を高めるというミステリ小説の書きかたの点でも見事だった。
  • 新作本格ミステリ短編からは柄刀の「或るスペイン岬の謎」を。柄刀国名シリーズの掉尾を飾る短編集『或るスペイン岬の謎』の表題作は、これまで以上にロジックを詰め込んだ一作だった。本シリーズでは唯一の長編『或るギリシャ棺の謎』がやはり一つ抜けて好きだが、そのほかの短編だと本作だろう。
  • 新作枠、そしてロジックといえば、まほろじっくが九マイル形式で炸裂した『ロジカ・ドラマチカ』を忘れてはならない。ちょっとした一言から推理を引っ張りだしていく、執拗な余詰めを含めた、隙を見せない論理は相変わらず圧巻だ。そのなかでも一作目「春の章」は、九マイル形式特有の飛躍と、まほろらしいネチネチとした緻密な論理が組み合わされた良作だ。
  • 新作ミステリ短編枠だと、阿津川の『午後のチャイムが鳴るまでは』から「いつになったら入稿完了?」ならびに柳川『三人書房』から表題作の「三人書房」も良かった。前者は文芸部を舞台にした青春ミステリかつ、タイトルからもあらわれているはやみねへのリスペクトがもっとも見えた一作。後者は江戸川乱歩を探偵役にすることが、短編として重要な手がかりになるという手さばきを見せた秀作だ。
  • ミステリから少し離れ、奇想のアイデアを上手く形にしたのが呉勝浩による「パノラマ・マシン」だ。実験小説の面白さを秘めつつ、暗い笑いが出るオチに着地させる。
  • 長編では『君の望む死に方』だったが、短編の倒叙では〈福家警部補〉シリーズから「最後の一冊」に惹かれた。推理を描かない手法として倒叙を思案したというのは先述の通りだが、本シリーズを読むと倒叙として描く推理の面白さに気づかされるから困ったものだ。

 

 年を明けて2024年は、もっと幅広く、そして深く「本を読む」ことができればよい。昨年は特に、自身の読めてなさに気づかされた一年だった。物理的な制限もあるため、今年の、特に上半期は再読が増えるような気もするが、これを機に読み溢しをひとつずつ拾っていければと考えている。

 

 



 

エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』

注意:エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』のネタバレを含みます。

 

 私にとって『エジプト十字架』は何度読んでも、印象が変わらない小説である。これはどちらかというと良い意味ではなく、悪い意味でだ。ミステリマニア的に『エジプト十字架』が、ともすれば国名シリーズのナンバーワン、さらにはクイーン作品のナンバーワンとする声があるのは知っている。それでも残念ながらわたしにはこの作品に、今なおその力があるとは思えない。個人的に『ギリシャ棺』が現代、そして未来永劫その輝きを放つ一作だとすれば、どうしても『エジプト十字架』は古典として伝統に取り残される傑作に思えてならないのだ。そう。しかしそれでも『エジプト十字架』は傑作である。

『エジプト十字架』はオーソドックスな古典探偵小説だ。クイーン流の幕開けーー引き込むような派手な死体の発見による物語への導入ーーこそすれど、そのあとは至ってのんびりと捜査が進んでいく。『ギリシャ棺』を書いた後だからか、探偵エラリーは「エジプト十字架」による一説をぶつ、パイプに対しての推理をおこなう程度で、<読者への挑戦状>が挟まる直前まで一切の検討をおこなわない。なんとなくエジプトというエキゾチックな主題が散りばめられており、そこにカルト宗教が混ざるから、退屈な情報提供による捜査にも耐えうる。しかしながら、捜査パートをいかに飽きさせないかに苦心している現代ミステリに慣れた読者(私のことだ)が、本作を読んでその捜査パートの長さに退屈しないかといわれると、やや怪しいとさえ思う。ここが、本作の古典として取り残されていくと感じてしまう所以のひとつである。もちろんクイーンが技術的に捜査パートを充実して描けなかったから、こうなったわけではないということは解決編を読めば察せられることではある。作家としてあの解決を隠匿するためにギリギリを責めた結果だと思えば、納得して余りあるのもまた事実だ*1

 一方で『エジプト十字架』はミステリ史にその名を刻み続ける傑作であり続ける。それはやはり、その推理自体が瞠目するほどに面白いからであり、『ギリシャ棺』で一種推理の面白さの極北に達した国名シリーズを、見事に転換しているからでもある。そしてその転換は探偵小説史における転換でもあった。

『エジプト十字架』の推理は、大きく「パイプについて」、「チェッカーについて」、「ヨードチンキについて」、「首切りについて」、「Tの謎について」、「連続殺人について」に分解できる。この中で一番有名なのはやはり「ヨードチンキについて」の美しい絞り込みだろう。クイーンは「意外な犯人」に固執していたが、ここではこのヨードチンキに付する推理があの強烈な犯人像を浮かび上がらせている。またそこから「首切りについて」犯人がなぜ首を切ったのかが明かされる流れは、これはもう鮮烈としか言いようがない。『エジプト十字架』フォロワーと言える作品が多く出てきたのにも頷けるほどに際立った構成はここに詰まっている。

 さて、『エジプト十字架』では先述した通り「ヨードチンキについて」のフーダニットが良く取り沙汰されるが、今回注目して読んだのはむしろその後段の推理についてであった。つまりそこから始まる「首切りについて」の理由、そして執拗に残された「T」の謎についての理由である。ここで「首切りについて」ーーたとえば角川版の解説でもーーこれは犯人が容疑者圏内から逃れられるためのトリックであると良く言及されている。換言すればこれは犯人がいかにエラリーの容疑者候補から逃れていたかのハウダニットであると指摘されがちだが、これはむしろ、ここまで言ってきたように「なぜ首が切られていたのか?」ならびに「なぜTが散りばめられていたのか?」という二つのホワイダニットをエラリーが発見したと捉えるほうが良い。フーダニットからのホワイダニット、からのフーダニットにふたたび戻るといった一連の推理の流れこそが国名シリーズに<論理のアクロバット>を誕生させた秘訣なのだから。ここでホワイダニットをエラリーが、そして作家クイーンが発見したからこそ、国名シリーズは都築道夫のいうモダーン・ディテクティヴ・ストーリイへと進化し、新しい推理とロジックの面白さーーロジックによるサプライズを手に入れたのである。

 念の為振り返ると、ホワイダニットによるロジックのサプライズという点では、歴史的には『Yの悲劇』が先に世に放たれてはいる。いわゆる「マンダリンの謎」はこれまたミステリ史に残るホワイダニットである。ただし、ふたつの真相の性格は大きく異なっている。

 簡単に整理してみよう。『Yの悲劇』における「マンダリンの謎」は、犯人と探偵(読者)の間で認識がズレていたからこそ発生した謎であった。しかし『エジプト十字架』における「首切り」の謎は、認識がズレていたというよりも、発想がズレていたーー正しくいえば追いつかなかったからこそ発生した謎である。端的にいえば、前者の真相は容易に許容できても、後者の真相はそこに狂気が潜んでいるように思える。つまり『エジプト十字架』がここで産み落としたのは「狂人の論理」の本格推理化という現象であったのだ。

 例に漏れずチェスタトンのことばを引いておこう。

狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

『エジプト十字架』の犯人は、エラリーの言うとおり「いたって理性的な人間」であった。理性以外のあらゆるものを失った人間の、飛躍した発想。そのような謎を作家クイーンはここで本格推理小説化してのけたのである。『エジプト十字架』は間違いなく偉大だ。「狂人の論理」というタームがいま、新本格の時代を超えてなお共有されているということがその偉大さを証明している。

*1:宣伝になりますが、ここの部分については『近代推理 vol.1』所収のクイーン国名シリーズ論において、夜来が興味深い指摘をしています。夜来はこの遅滞を推量と立証の成立を同時化したことによるものと分析しているのです。詳細は当該同人誌を読んでください。宣伝終わり。

【宣伝】『近代推理 vol.3』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京41にサークル・ビロードの薔薇として出店します。場所は南1,2ホール G-59です。新刊としてミステリの創作・評論本『近代推理 vol.3』を頒布します。お値段は会場価格で1500円、通販(BOOTH)で1630円です。

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 さらに! ありがたいことに前回の文フリで好評いただいた『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』、また増刷致しました創刊号『近代推理 vol.1』についても、在庫分を会場でにて販売いたします。どれもあと手で数えられる分ほどしか残っていないので、お求めの方はお早めにお越しください! 前回手に入れられなかった方はぜひよろしくお願いいたします。

 こちらも良い記事・創作が揃っています。『近代推理 vol.1』や『近代推理 vol.2』については、こちらの記事を参考にしてください。なんとBOOTHの在庫も復活しています。お値段は据え置きです。

 まとめると、今回は新刊として『近代推理 vol.3』を、既刊として『近代推理 vol.1』、『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』を頒布いたします。何卒よろしくお願いします。場所は南1,2ホール G-59です(再掲)。

 ということで、宣伝パートは終わり! 書くべき内容の九割九分はここまで。ここからは内容紹介から少しだけ踏み込んだ、世界最速レビューを書きましたので購入の際の参考にしてください。

今年もさいごまで文学しようぜ!

『近代推理 vol.3』

特集

傑作短編を探せ! 現代編

 今号では特集記事として、サークルメンバー各々の推し短編を2020年代付近発表という縛りのもと収集し、一作一作について読書会を行った様子を収録しています。つまりこの記事は、

  1. 2020年代以降の面白い短編情報をジャンルレスに収集できる。
  2. 他所の読書会の様子を覗くことができる。

というひと粒で二度美味しい感じということです。

 読書会についても、自分ら事ながら、多角的に鋭くそれぞれの作品を読解できていると思います。それぞれの読みを共有し、理解し合い、ときには訂正しあう。そういった営為からーー読書会という試みからしかのみ発生しえないレビュー集になっているともいえるでしょう。バックボーンや興味、趣味さえも違う五人が選りすぐり、語り合ったからこそ生まれた総計15本の読書会アンソロジーを、ぜひご覧ください!!

評論

月見怜「<あやつり>という執念ーー山田風太郎作品における<遠隔操作>論」

 評論という枠組みで記事を寄稿して三本目なんですが、いまだに評論ってなんやねんと思っています。作品や作家を語るとき、個人的な興味はそれはいかにして作られたかと、モチーフや構図はどのようにしてお話に組み込まれたか、そしてそれはなにを語るのかというところにあるような気がしています。そこで今回は山田風太郎という作家が挑み続けたテーマである<遠隔操作>というモチーフについて一席ぶったということです。

 天才であるーーと断言してもいいでしょうーー山田風太郎は、推理小説のみならず、ありとあらゆるジャンルの作品のなかで、ひとがひとを操るという事象について描いてきました。本論では操りの裏には誰がいたのか、どのような主体が操り手として選ばれているのかについて分析を試み、山田風太郎の人間観について迫ったもの、ということができそうです。

 また本稿は、山田風太郎の<遠隔操作>表象は推理小説的な「操り」とはなにが違うのかということについて考えた記事でもあります*1。本格推理における<操り>とは、練られた計画と環境構築が為す自動操縦であるが、風太郎作品のなかではどうだろうということを考えています。

 いろいろ書きましたが、裏テーマには『近代推理 vol.1』で書き始めた「米澤穂信と操り」について、その続きを書くためには山田風太郎のそれをまず整理しなければならないだろうというモチベーションがありました。正直この記事がどう転がっていくかはまだ見えていないのですが、次に向けてホップ、ステップ、ジャンプのホップくらいはできたのではないかと思います。

 まあなんにせよ、ご笑覧いただけると幸いです。あと山田風太郎作品を読んでください。いまでも現役でばりばり戦える粒揃いです。よろしくお願いします。

創作

神浦七床「名字ガチャ」

 ある年齢になると名字が国から与えられる。そのような設定から一気に異常執着の物語へと変貌していくさまは、作者への執着に対する執着を感じて底知れぬ恐怖を覚えてしまいます。言い換えれば、それほどまでにとてつもないアクロバットが作中で繰り広げられているということでもあります。

 非現代的なSF空間において、その空間だからこそ描ける強い感情がそこにはある......んですけれど、強い感情の発露の結果が短編ながら斜め上の方向に飛んでいっていて、半分くらい奇想めいている。強感情にとてつもない愛着がないと発想されない小説という点で極めて奇妙な味わいがあります。

夜来風音「いかさま師」

 ザ・ギャンブル小説といった体裁の短編です。雀荘にギャンブラーが集まって、雀卓上で化かし合う。こちらも短いながらギャンブル小説の妙味が詰まっています。

 化かすといっても騙すのではない。それは場を掌握するといったほうが近いかも知れません。ギャンブル小説やギャンブル漫画では、だれが場を掌握できるかが焦点になりますが*2、本作もまさしくそういう話。なかなか良いのではないでしょうか。

 

 ということで、今回の宣伝&レビューはおしまい! いろいろ頑張っていますので、ぜひぜひお手に取りください。ほんとに。よろしくお願いしますね。

 南1,2ホール G-59で待っています。では!

*1:というか、こちらが本筋ですね。

*2:流れを掴むというのもそのひとつでしょう。

このミスと本ミスを数値的に比較してみた

はじめに

ミステリというジャンルには、年末ランキングというイベントがある。毎年年末になると、その年のミステリを番付したムック本が、各社から出版される。そのなかでもよく耳にするのは、やはり「このミステリーがすごい!」だろう。「このミス」と略されるそれの天下でもとれば、翌日にはデカデカと、その功が帯としてまかれることとなる。一方で、「本格ミステリベスト10」なるランキング本もある(以下「本ミス」と略す)。そこではミステリのなかでも「本格ミステリ」 という分野に特化して、ランクづけがおこなわれている。

さてさて。こういうふうに(ほとんど)同じようなジャンルの小説たちに対して、ふたつの角度からランクづけをしようとすると、半ば必然的に、ふたつの角度それ自体に色がついてくる。つまりは「このミス」的な小説、「本ミス」的な小説に、なんとなく大別されていく。というか、大別されていたような気がする。

しかし果たしてそれは本当だろうか? 

仮説

まず、「このミス」と「本ミス」に対するごく個人的な所感を述べる。このふたつそれぞれに色があるかという点だが、個人的には昔はあったという肌感覚がある。十年前くらいまではそれぞれに特色があったが、さいきんはそうでもなく、ここ数年はどちらのランキングにも同じような本が載っているような気がしている。

あともうひとつ、ふたつのランキングについて思っていることがある。なんかさいきん、同じ本がふたつのランキングの上位を占めてない? 

というのも、年末年始に本屋に行くと、一冊の本の帯に「このミス・本ミス1位受賞!」だったり、「このミス1位・本ミス2位を獲得!」だったりが書かれている感じがあるのだ。そしてこの、数冊による上位独占も、ここさいきんの傾向のような気がしている。

つまりわたしの提示する仮説はこうだ。

  1. 「このミス」と「本ミス」それぞれに掲載されている本の一致率は、右肩上がりの傾向にある。
  2. 「このミス」と「本ミス」のランキング順位一致率も、右肩上がりの傾向にある。

手法

この仮説について考えるために、「このミス」ならびに「本ミス」の一致率を測定する。ここで用いる指標は大きくふたつ、Overlap率とRBO (Rank-Biased Overlap) である。データには、2001年から2025年までの25年分の、それぞれの国内ランキングトップ10を用いる。この範囲においては、2001年度分を除けば、投票対象となった小説も全く同じに揃っている*1

Overlap率

Overlap率とは、両方のランキングにおいて上位10冊に入った小説が、トップ10中何冊あるかという割合である。

今回は分母を10にしているので、割合を10倍すれば、両方のランキングに入った本の冊数が算出されることになる。

RBO (Rank-Biased Overlap)

RBOとは、ふたつのランキングの順位の一致率をはかることができる指標である。けっこう計算がややこしいので、興味があるかたは論文*2を読むか、あるいはChatGPTに聞いてみてほしい。

RBOのいいところは、順位の一致率を単に計測するのみならず、上位にフォーカスしてその一致率をはかったりもできることである。この点については、結果のほうで詳しくみていく。

結果

Overlap率

f:id:tukimidaifuku:20250912205620p:image

Overlap率を計算すると、図のようになった。これをみると、この25年間の範囲では、最低でも2冊は両方のトップ10にランクインした作品が存在するということである。もっともOverlap率が高いのは22年度の0.7(7冊)で、流石にこれは顔ぶれが一緒すぎるように思う。

平均をとると*3、各年4.12冊は両方にランクインする試算らしい。それを踏まえると、ここ5年中4年は平均以上に、顔触れが一致しているということになる。

では傾向それ自体はどうだろう。まあたしかに右肩上がりといわれれば右肩上がりである。とはいえ派手に増加が見えているわけでもない。

RBO (p=0.9)

f:id:tukimidaifuku:20250912210930p:image
RBOの結果を見てみる。RBOにはパラメータpがあって、このパラメータによってランキングのどこに特に注目するかを決めることができる。p (0<p<1)の値を大きくすればするほど、順位全体を見ることができる。

ということで、まずはp=0.9と設定し、ランキング全体同士を比較してみる。結果は図のようになった。

最初の2年分を見てほしい。この2年においてオーバラップした本はそれぞれ2冊だが、01年度の1位がどちらにおいても『奇術探偵曾我佳城全集』であったのに対して、02年についてはこのミス1位の『模倣犯』が本ミスにおいては9位に座している。その結果、01年度のRBOは02年度のそれよりも高く出ている*4

全体を見てみると、これまた右肩上がりですと言い切っていいか微妙な結果となった。もちろん年を経るごとにRBOの値は大きくなってはいるが、意外と06年度や11、12年度もその一致率が大きく出ている。まあでも、ここ数年の値は平均や中央値よりも高そうだ。ここ数年に限れば、顔触れだけでなく、全体的な順位すらも近くなってきている。

RBO (p=0.7)

f:id:tukimidaifuku:20250912212441p:image

次にパラメータpの値をp=0.7にしてみる。つまりランキングでも特に4位、5位以上といった上位の一致率にフォーカスして、ふたつの一致率を計算することができる。

結果は図の通りである。06年度が抜きん出て高い。『容疑者Xの献身』が両方で1位を獲ったこの年度は、オーバーラップ数こそ3冊だけれども、他の『扉は閉ざされたまま』も『神様ゲーム』も、それぞれ両方で2位、5位と、上位の顔ぶれが両者でかなり高く一致している。

全体的な傾向をみると、この指標がもっとも右肩上がりの傾向を見せてきている感じがある。特に07年度以降に限れば、RBOが徐々に上昇しているのが見てとれる。

結論

それぞれの仮説に対する結論を述べる。

  1. 「このミス」と「本ミス」それぞれに掲載されている本の一致率は、やや右肩上がりの傾向にあるが、過去にも一致率が高かった例もある。
  2. 「このミス」と「本ミス」のランキング順位一致率も、気持ち右肩上がりの傾向にある。特に上位の一致率をみると、ここ数年の一致率は高まってきている。

ということで、「このミス」と「本ミス」の性格が 少しずつ似通ってきている傾向が見てとれる。ただそれはまだ微々たる変化であり、昔は違ったが今はという、はじめにで書いた肌感覚は、それほどあてにならなさそうだ。一方で「あっちでもこっちでも1位!」みたいな状況は、年々増えつつある。

Limitations

何となく統計量を示したが、それぞれ上位10冊と、データ数が少なすぎることには留意してほしい。「このミス」も「本ミス」も上位20冊まで集計していたはずなので、本格的な調査には上位20冊までのデータ処理が必須である。

またこれは国内のみの結果を用いている。たとえば読者論に踏み込むには、これを海外にまで拡張する必要があるだろう。

Acknowledgement

これを調べてみようと思ったのは、参加しているDiscordサーバーにおいて、「このミス」と「本ミス」の比較をされている方がいたからである。比較していた理由も、調査それ自体もこの記事とはまったく別の文脈にあったが、そーいえばどうなんだろうと考えるきっかけになったのは、サーバーにおける会話であった。

 

*1:本ミスの2001年度分のみ、2000年1月〜10月発行の本を対象にしている。このミス側が1999年11月〜2000年10月発行の本を対象にしているため、1999年11月〜12月分だけズレている。

*2:https://dl.acm.org/doi/10.1145/1852102.1852106

*3:パソコンで計算し忘れたので電卓を叩いた。間違っているかも。

*4:もちろんもう1冊のズレも影響している。

AIは本当に愚かなのか?

はじめに

 いまさらどこかにいる匿名なだれかが語ることでもないかもしれませんが、最近のAIの発展にはめざましいものを感じます。その進歩の速さには、恐ろしさすら覚えるほどです。わたしは現状のAIの使われかたに対して好ましく思っていないので、余計に嫌さを感じています。ただそれでも、それがすごいということ自体は認めざるを得ません。その恩恵を被っているというのも、素直に受け入れなければならないでしょう。

 しかし、ここ最近わたしのタイムライン上ではAIを揶揄するような投稿がたびたび見られます。特にクリエイターと言われるひとたちの手によってです。その気持ちは痛いほどわかります。AIによって創作活動そのものが軽視されるようになってきていることは、これまた事実だからです。そういった嘆きについては、過去に記事にしています。

saisekikoukan.hatenablog.com

 ただ。あるいはこんなときだからこそ、わたし/あなたたちは、AIそのものを軽視してはならない。AIの現状がどこにあるのか、それを多少なりともちゃんと知っていなければ、わたしたちはそれに対処することもできません。

 ゆえにこの記事で試みるのは、AIのありようを現状知らないひとに対して、それを知ってもらうことによって「その次」を考えませんか? という提案をすることです。本記事に記載する例は、インターネット上で「できなかった」と言われていたものになります。そのことに対して、ここでは「実際にはできるのだ」と反論する形にはなりますが、しかしここで行いたいのは、その無知を指摘することではありません。現状を理解していただいたうえで、ではまだできないことはなにか、わたしたちがするべきことはなにかを考えましょうという提案こそを行いたいのです。

 そのことを踏まえたうえで、読んでいただけると幸いです。

 またわたしはChatGPTのplusに課金しています。proには課金していません。ですが、大体ここが実用におけるフロントラインだと考えているので、そのうえで以後進めていきます。

AIは本当に無知なのか?

 わたしが散見したもののなかで、一番最初に「あれ?」と思ったのは、AIはばかばかしいほどに嘘をつくという趣旨のポストでした。そこでは大森望という翻訳家/書評家が具体的に挙げられていて、彼の翻訳における代表作を、甚だしいまでに間違えているというのです。

 たしかに、AI(LLM)にはハルシネーションといった現象が起こりえます。あいつらは平気で嘘をつく。適当なことだってぬかします。

 ただし、それはAIをAI単体で使った場合です。現状多くのLLMには検索機能が備わるようになりました。彼らはわたしたちの代わりに、ウェブ上で検索をし、情報を集め、まとめてくれるようになりました。それはChatGPTでも同様です。「検索」というタブを押すことによってその機能を使用することができます。

 実際に大森望という翻訳家がどの作品を翻訳したのか、その代表作はなにか、ChatGPTに尋ねてみましょう。

実際に尋ねてみた例。ほかにプロンプト等はない。

 o3を用いて、かつ検索機能をオンにした状態で質問してみた結果がこちらです。見てみればわかりますが、なかなか良い回答が返ってきています。ちゃんと大森望が翻訳した作品が並べられていて、彼が翻訳していない作品は並べられていません。その代表性という観点からみても、SFファンも納得するようなラインナップになっているのではないでしょうか。

チャットの続き。

 そしてその後、このように色々と回答の詳細を述べてくれています。どの記事を参照したのかも記載してくれていて、それをクリックするだけで該当記事に飛ぶことができます。わたしたちは、その記事をもとにある程度のファクトチェックも可能です。*1

 全体図を見たい方むけに、チャットを共有しておきます。こちらから誰でも閲覧可能なはずです。

chatgpt.com

 と、こんな感じで、AIは意外と正しいことを言ってくれるようになりました。数年前では考えられないことですが、いまではそういったこともできてしまうのです。

 ただし、できるからといって使うかというと、個人的にはかなり微妙です。それというのも、この回答が返ってくるまでに大体3~4分くらいかかっているからです。大森望がなにを翻訳しているのかを知りたいだけならば、正直ググったほうが早い。特にわたしは、それとなくSFというジャンルにおける代表的な作品はなにかなども知っているので、ただ知るだけならばやはりググったほうが圧倒的に早いし、ストレスフリーだと思います。

 一方で、もしわたしがSFというものに対して全く造詣がなければ。そのときわたしはこの機能を使うと思います。チャット全体を見てもらえばわかりますが、代表している作品がなにかならびにその理由がなぜかの記載が、かなり詳細に書かれていますから。ここまでちゃんと書いてくれているブログや記事を探すよりも、たぶんChatGPTに訊いたほうが早いでしょう。*2

AIはその無知を知るか?

 次に見たものは、AIにおける「無知の知」という概念についてです。これは実際に研究者のなかでもがっつり研究されているものであり、AIが知らないことを知らないと言えるのかというのは、いまだに疑問視されていると言わざるをえません。

 そこであるひとは、架空言語の架空活用をLLMに投げて、それが架空なものと判断できるのかということを検証なさっていました。かなり面白い検証だと思います。そこでは「ヌホホマニャーン語の髭活用」について尋ねられていて、LLMは(まんまと)「ヌホホマニャーン語の髭活用」について存在しないことをわんさか述べていました。検証者はそこで、彼らは「ヌホホマニャーン語の髭活用」が存在すると思っていると結論づけていました。

 しかし果たして、その結論づけは正しいのでしょうか? とりあえず、わたし自身で「ヌホホマニャーン語の髭活用」についてChatGPTに訊いてみました。今回はとりあえず検索機能をオフにした状態で、です。すると次のような答えが返ってきました。

 

ヌホホマニャーン語について語るChatGPT。

 なんと、ChatGPTはヌホホマニャーン語のことを知っているようです。もちろん存在しないのに。あほだねえと言いたくもなりますが、しかしそれはまだ軽率です。いまのChatGPTは、その推論の中身の一部を言語化して見せてくれるようになっています。ということで、かれが何を考えてこんな回答をしたのか、実際にその思考過程を見てみましょう。

思考過程を覗いてみる。

Explaining fictional grammar
The user is asking about "beard conjugation" in Nuhuhomanyan language, which seems to be fictional or playful. "Beard conjugation" isn't a known grammatical term, and the language doesn't look real. It’s most likely a creative request, perhaps for a humorous or imaginative explanation. I'll create a fun, made-up system for conjugating beards in this fictional language, using clear and simple bullet points to break it down, and avoid overcomplicating with too many tables.

 太字にしたところに記載がありますが、なんとChatGPTはこの言語が架空で創作されたものだと分かったうえで、存在するものとして相手してくれていた、ということがわかります。まるで赤子をあやすかのように、そんなものは存在しないよなんて冷たく返すようなことはなく、面白がってくれていたのです。

 つまり少なくともこの例では、ChatGPTは自身がヌホホマニャーン語を知らないことを知っていた、ということになります。そしておそらく、ChatGPTは利用者もヌホホマニャーン語なんて存在しないだろうと思っていると信頼してくれていたのでしょう。だからこの言語が存在しないなんて当然なことは言うまでもなく前提として、話を進めてくれていたのです。

 この結果は個人的にもかなり驚きました。知らないことを知らないという、というのにもある程度のメタ認知が必要ですが、ここで行われているような知らないことを知ったうえで、しかし知っているように話すというのは、より高度なメタ認知が必要になるからです。

 ちなみに検索機能をオンにすると、直接的にヌホホマニャーン語が創作言語であるだろうということを伝えてくれるようになりました。

検索機能をオンにした結果。

 この例についても、チャット全体を共有しておきますので気になるかたは是非参考にしてみてください。

chatgpt.com

chatgpt.com

ChatGPTはヌホホマニャーン語が存在しないことを知っていた。

 このことからなにか考察を引き出すならば、LLMは人類のことをそこそこ評価してくれているということが言えるのではないでしょうか。人類側が「知らないことを知っている」というのを前提に話を進めてくれているわけですから、つまり我々は「無知の知」を達成できていると仮定してくれているわけですから、これはなかなかな評価です。繰り返しますが、正直この結果には驚きました。これを書きながら、わたしは歯噛みしています。

わたしたちはどう使えばよいか?

 最後に、LLMを使った検索について、なんとなくこんな使い方もできるよという例をいくつか紹介して終わりたいと思います。超個人的な例ですが、いくつかは参考になるかもしれません。

単行本未収録短編がどこで読めるかを発掘してもらう。

 これはかなり有用です。書誌情報を色々とあさるのは、正直かなり面倒だし難易度も高かったりします。日本語文献だったらまだしも、海外文献だと正直手のつけようがありません。でもChatGPT検索ならば、海外作品でも、日本からkindleで読むにはどうすればいいかみたいな条件づけ検索すらできてしまう。これはすこぶる便利です。こういった条件をつけた検索はなかなか優秀です。

引用元を発掘してもらう。

 これもなかなか便利だと思います。本を読んでいたり講演を聞いていたりしたときに、「どこで書いてあったかは覚えていないけれど」というのを枕言葉に(あるいはそもそも引用元の記載がなかったりも)、引用を引っ張ってくるケースがあります。そんなとき、「どこで書かれていたことですか」ととりあえずChatGPT検索に投げておけば、なんらかの示唆を得られる答えが返ってきます。

 引用元が一発でわかることもあれば、ここら辺を探してみると良いでしょうといった提案をされることもありますが、いずれにせよ何も知らずに調べ始めるよりは大分ましです。

あのニュースどこで見たんだっけ? を発掘してもらう。

 なにもかもがニュースになり記事になる時代、なんかこういうこと書いてた記事を読んだんだけれどそれをどこで見たか覚えてないみたいなこと、ありますよね? そういったときに、こういった感じの記事を見た覚えがあるんだけれど、それを検索してくれませんかというとそこそこの精度で発掘してきてくれます。こういうファジーな検索は従来のWeb検索では限界があるので、なかなかおすすめです。

 まあブックマークとかをちゃんとしておけばいい話なのですが、そうもいかないのが人情ってものでしょう。

おわりに

 ここまで読んでくれたひとがいるのならば、まずはそのことに感謝したいと思います。AIを礼賛するような記事になってしまい、書いた張本人もややいけ好かない気持ちにはなっているのですが、現実を見つめるのもまた重要なことでしょう。

 ただ正直なところ、個人的にはAIはまだまだだとも思っています。なにか書きたいことが具体的に頭のなかにあったとき、それをAIに託して書いてくれるかというと、現状はそうではありません。プロンプトを工夫すれば書いてくれるのかもしれませんが、正直プロンプトを工夫する暇があれば書いてしまったほうが早いというのが、いまのAIの現実です。

 でもやはり、なかなかに使えるものになってきているのは事実ですし、使いしろもあります。どうやって使っていくかは冷静に向き合っていかなければなりませんが、願わくばうまく使いこなしていきたいところです。

*1:Wikipediaでファクトチェックをするのかという問題もありますが、日本において作家の書誌リストが一番まとまっているのはWikipediaなのです。悲しくも。

*2:大森望ほどのビッグネームであればいくらでも代表作がなにかを書いてくれている記事もころがっているでしょうが、そんな作家/翻訳家は一握りですから、こういった使い方は実際にされうると思います。

【宣伝】『近代推理 vol.2』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京40にサークル・ビロードの薔薇として出店します。場所は南1,2ホール N-50です。新刊としてミステリの創作・評論本『近代推理 vol.2』を頒布します。お値段は会場価格で1000円、通販(BOOTH)で1130円です。

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 今回は他にも、前回の鮎川哲也賞最終候補作である夜来風音『彼女が地獄にゆくのなら』も同時頒布いたします。

 詳細はこちらです。また本書もBOOTHにて通販を行なっております。

 さらに! ありがたいことに前回の文フリで完売となった『近代推理 vol.1』も、今回増刷して頒布いたします。前回手に入れられなかった方はぜひよろしくお願いいたします。こちらも良い記事が揃っています。『近代推理 vol.1』については、こちらの記事を参考にしてください。通販の在庫も増やしています。値段は据え置きです。

 まとめると、今回は新刊として『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』を、既刊として『近代推理 vol.1』を頒布いたします。何卒よろしくお願いします。場所は南1,2ホール N-50です(再掲)。

 ということで、宣伝パートは終わり! 書くべき内容の九割九分はここまで。ここからは内容紹介から少しだけ踏み込んだ、世界最速レビューを書きましたので購入の際の参考にしてください。みんなで文学!

『近代推理 vol.2』

評論

神浦七床「SwitchでできるミステリーADVレビュー」

 タイトルそのままの通り、Switchでプレイ可能なミステリーADVゲームのレビューが書かれています。プレイ時間が取れなかったり、そもそもどういう内容なのかが不透明だったり、昨今勢いづいているミステリーADVというジャンルにどう立ち向かえば良いかなかなか難しいところもあると思いますが(かくいうわたしがそうです)、本レビューを読めば好みの作品が見つかること請け合いです。そして思わずSwitchを手に取ってしまうはず。ただでさえ作品数が多いので、これまでもなかなかまとまった紹介がなされてこなかっただけに、貴重なレビューになっていると思います。

月見怜「MWA短編賞受賞作全短評」

 全70作未邦訳分含めて全部読んで全部短評を書きました。おおよそ150字〜300字くらいの間で、ひとつずつあらすじと面白いと感じられるところや作品として狙ったところなどをレビューしていきました。これまた繰り返しますが、ただでさえ作品数が多いので、これまでもなかなかまとまった紹介がなされてこなかっただけに、手前味噌ですが貴重なレビューになっていると思います。特に2008年以降のエドガー賞短編部門受賞作を日本語でまとめているのは、本レビューがはじめてなのではないでしょうか。

 また最後に、7000字程度のちょっとした批評文を書いています。先に2008年以降のと書きましたが、では2007年以前はどうなのかというと、小森収「短編ミステリの二百年」にてざっとこの賞の変遷が語られています。しかしその語られかたはややアンフェアなのではないか。あるところでは賛同しつつも、あるところでは疑問を呈さざるをえない。特にその言いぶりに。といったような、「短編ミステリの二百年」におけるエドガー賞短編部門受賞作に対する評への批判的な検討を試みています。その上で、全体の賞の変遷の捉え方を提案しています。

 あとはおまけとして、特に個人的に好きな作品十選と、全部読みたい方向けに書誌情報を載せました。

 粒揃いの作品が揃っている賞だと思いますので、読書ガイドとしてもぜひお手にとりください。

夜来風音「 『忘られぬ死』小論──クリスティーと都市と家」

 クリスティーをどう読むか。クリスティーがミステリというジャンルにおいて試みてきたことはなんなのか。偉大な女王の足跡に、その「舞台設定」という切り口で挑んだのが本論になっています。短編「黄色いアイリス」とそれを長編化した『忘られぬ死』を中心に、長編化した際の変更点に目を向けながら、クリスティー作品における舞台設定がミステリというジャンルをどう演出しているかが分析されています。

 クリスティーの時代から幾許か経過し、それでは現代ミステリはどのような舞台をどのような理由で選択しているのか? そのような問いを立てたくなるような論考になっています。

創作

神浦七床「嘘の種類は五つある」

 名探偵として一世を風靡した過去を持つ探偵・鏡刻のもとで働くことになった加護亜里沙は、ペット探しに奔走することになる。名探偵とその助手、ミステリにおいて幾度となく描かれた関係に、大きな爆弾を落としてやろうという気概を感じる作品になっています。

 短編ミステリとしても、するっとお出しされる解決がなかなかに意表をつくもので、プロットの巧みさを感じさせます。

夜来風音「消極的真実」

 人格シム(ある人格を模倣したAI)から模倣先のオリジナルを捜索して欲しいという依頼が、読んでいて強い興味を惹きました。

 ジャンルはハードボイルドになると思うのですが、その手つきも見事。捜査から幕切れまで、没入して読める一作になっていると思います。

夜来風音『彼女が地獄にゆくのなら』

 鮎川哲也賞最終候補作。早い話はnoteにて公開されているあらすじと試し読みを読んでみてください。

 一読者として本作を読んでみると、本作は本格推理小説として色々な工夫が凝らされている、そして挑戦がなされているという風に感じます。特にここで試みられていることは、古典復興というところでしょう。(以下、完全に読者としてのレビューです。作者には妄言と一蹴される可能性もある、とだけ予め断っておきます)

 それはどういうことか。そのことを考えるには、『近代推理 vol.1』で書かれた評論がなんだったのかをみてみると良いでしょう。夜来はそこでクイーンの推理についての分析を行っています。そして明らかに、そこで得た知見を作品に反映させています。

 では具体的になにを試みているのか。中身をつぶさに読んでいくと、そこに書かれているのはそれなりに入り組んだ推理の迷宮です。決して単純明快ではない。そこに迷い込み、そしてそこから脱出するまでを描くことによって、真相の真実らしさを担保することに挑んでいます。

 と、こんなことを書くと、新本格以後ありきたりとなってしまったちょっとした系譜の最後尾にまわっているだけなのではないかという指摘も想定されますが、この指摘に関しては先回りして反論を述べさせてください。*1

 新本格以後、わたしたちは、多くのミステリの読み手/書き手は新本格を読んで育ってきたと思います。いま読まれている多くの作品は新本格をもとにその先へ向かおうとしているものであることが多いでしょう。新本格を読み、新本格を深化させる、そうして生まれた作品が、また参照先となる。その循環構造が本格ミステリの現在地であるような気が、ひとりのミステリ読者としてはしてなりません。

 しかし立ち返ってみると、わたしたちが憧れた新本格それ自体は、新本格を参照しているわけではありません。かれらは古典ミステリを参照し、新しい本格を生み出していた。ではそれをどうにか再現できないだろうか? 再現することでなにか新しいものが生み出せないだろうか? ここで挑んでいるのはそういったことではないでしょうか。新本格以後を知っている書き手が、新本格を作り上げたスキームを模倣する。新本格以後煮詰められた本格ミステリの読者が、ここであえて古典ミステリを再参照することで循環構造から逃れられないかと思索した結実として、本作は読めるものがあると思うのです。

 それがどのように実っているのか、そればかりはぜひ読んでみてくださいとしか言いようがありません。その試行が上手くいっているのか、そこになにか新しいものを見出すことができるのか。ご自身の手で読んで欲しいと思います。

フリーペーパーもあるよ!

 文フリ現地ではフリーペーパーとしてアンソロジー『選んで、語って、読書会』(有栖川有栖北村薫宮部みゆき編)を読んで、実際に読書会を行った記録を頒布いたします。

 二冊で四時間くらい喋ったので、流石に全部は載せられませんでしたが、良い感じにまとめてあると思いますのでお立ち寄りください。かなり率直に感想を語っていて愉しいものになっていると思います。

 

 南1,2ホール N-50で待っています。では!

 

*1:こういった姿勢はあまり良くありませんが、そういう場もなさそうだからここで書きます。

【宣伝】『近代推理 vol.1』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京39にサークル・ビロードの薔薇として出店します。新月お茶の会出身の先輩方と三人で組んで出します。場所は西3ホール H-6です。ミステリの創作・評論本『近代推理 vol.1』を頒布します。お値段は会場価格で1500円、BOOTHで1630円です。

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 Xもやっています。

 よろしくお願いします。

 ここまでで書きたいことの九割九分は書いたのですが、せっかくなので内容紹介を兼ねてレビューを書きました。もしよろしければご一読ください。ハッピー文学フリマ

 

評論

夜来風音「ゆらめく論理の帰着点 エラリー・クイーン「国名シリーズ」論」

 今回の目玉はこの評論でしょう。ページ数がピカイチです。本論はエラリー・クイーン「国名」シリーズの、その推理を読解しようというものですが、世界中見回してもここまで執拗に推理を分析したものはないだろうと断言できるほどに、推理の在り様がひとつずつ言語化されています。

 簡単にどういったことが書かれているかを紹介すると、本論ではおおまかに三つのコンセプトが提示されています。ひとつは本格ミステリにおいて単に「推理」と呼ばれているものを「推量」と「立証」に分けて考えてみようということ。ひとつはパズラー小説における三幕構成を整理することで、どのタイミングで小説がいかなるアクションを起こしているのかを見てみようということ。そしてもうひとつが論理のスケールをマクロとミタロに分け、マクロではどのような論理提示がされているか、ミクロではどんな論理ステップが踏まれているのかを確認しようということです。

 これら三つのコンセプトから、夜来は「国名」シリーズを四つの時期に区分し、それぞれの作品がいかなる挑戦のもとに書かれたのかについて論じています。この時期区分は、クイーンという作家の推理小説への興味がいかに変遷していっているのかを表しているものでもあります。そしてそれは同時に、クイーンがどのようにして読者をひきつけたのかを評してもいるといえるでしょう。

 この評論のすごいところを挙げるとすると、いままで「論理のアクロバット」といわれていたものや、あるいはクイーンの精密な論理とアバウトに語られていたものが、どう演出されて金字塔を打ち立ててきたのかについて、つぶさに種明かしをおこなっているところではないでしょうか。これは私論ですが、本格ミステリにおける推理は、その演出にこそ本質が潜んでいると考えています。クイーンという大作家が、推理を面白くするべくどう演出していたのか、それを丸裸にした評論に仕上がっています。

 

神浦七床「パトリック・レドモンド四作品レビュー」

『霊応ゲーム』の作者パトリック・レドモンドの作品レビューです。邦訳のある『霊応ゲーム』、『復警の子』のみならず、未邦訳のThe replacement、The Night Visitorまでレビューされているのが嬉しい! 未邦訳作品ってどれを手に取っていいかわからないので、どういう話か、どう面白いのかが日本語で読めるだけで読書の指針になります。

 本レビューは「関係性」にこだわりのある書き手によって書かれていることもあり、レドモンドがどう人間関係を作品中で錯綜させていっているのかに焦点が当てられています。本文を読むと嫉妬や羨望の先にある物語に興味がある読者にこそ、ぜひ届いてほしい作家だなと改めて思わされます。

 レビュー終盤では『誰ソ彼ホテル』や『オーダーメイド殺人クラブ』といった国内作品との比較もあるので、そこからレドモンド作品へといった動線としても機能しています。「関係性」やパトリック・レドモンドといった言葉にピンときている方はぜひ!

 

月見怜「米澤穂信と「操り」試論1:移ろいゆく互恵関係について」

 論の質というのは、その内容はもちろん、しかしその多くは形式の適切さに依存すると考えています。そのようなことを考えつつ、資料を集めテクストを読み、できるだけ頭をひねりながら形式を整え、文章を出力したのが本論です。

 その出来の如何については読んで判断してもらうとして、ここでは裏話をひとつまみしようと思います。

 そもそも「操り」と互恵関係について考えたいと思い始めたのは荒岸さんの「陰謀論的探偵小説論」の小市民の回を読んだからでした*1。そのときのツイートがこれです。

 大学ミス研会員がかかる麻疹なようなもので、わたしも後期クイーン的問題にはそれなりに興味がありました。しかし同時に、多くの後期クイーン的問題を扱った評では、その問題意識を推理小説的にしか読解していない勿体なさを感じていました。荒岸さんの評を読むと、後期クイーン的問題を捉えることで小説全体を深く見通すことができるようにも思えます。そこで米澤穂信という作家を俎上にあげ、実践してみようというのが本論です。

「試論1」と謳っているように、読みたい米澤の小説はまだまだいくつもあります。読まねばならないとも思っています。ぜひ『近代推理』を応援していただけると嬉しいです。

 

小説

夜来風音「AIに殺される」

 見張っていた車の中で殺人が起こる、という衆人環視の密室が描かれた推理短編です。AIを脳に埋め込むということが人口に膾炙していたり、警察が民間になっていたりと、設定面でも工夫がされています。本筋の推理も密室劇からダイイングメッセージまで、短いながらに試行が詰め込まれた一作です。

 

神浦七床「俺たちには勉強しかない」

 中学受験を控えた小学生たちが、お迎えを待つ間に塾で行なった頭脳バトルの話です。廊下に出した机を目印もないまま正しく教室に並べ直せるかを競うというゲーム設定は、小学生が知恵を絞るにはふさわしい面白いものにまとまっています。はたしてどのようにして、かれらは互いを出し抜くのか。伏線回収劇が見ものの一作です。

 

他にも

 これは私事ですが、サークルの会誌『月猫通り2185』のクイーン特集にも寄稿しています。文フリにも出ます!

 わたしが参加したのは『ギリシャ棺』座談会と全レビューです。『ギリシャ棺』座談会ではべらべらと『ギリシャ棺』の面白いところをネタバレ全開で語っています。全レビューでは、ラジオドラマのいくつかと、『事件簿1・2』と『心地よく秘密めいた場所』をレビューしています。『心地よく』に関しては後期クイーンのねらいみたいなことを短いながら上手く書けたと思っています。こちらもよしなに。

 既刊にも色々と参加しています。文フリにお越しの際は立ち寄ってみてください。

 わたしは参加していませんが、同日発売の新刊『月猫通り2186』*2円城塔特集もおすすめです。身内特権で勝手に読んだんですが、なかなか面白い文章が揃っています。ぜひ。

 

*1:『ミステリマガジン』にて絶賛連載中です。

*2:『月猫通り』は一回の文フリに二冊の新刊が出ます。

反・反・反AI

 タイトルの通りの話をします。Xの規約変更うんぬんで絵師さんたちがかんぬんみたいなはなしに、それは技術的に意味がないから投稿してもしなくても同じなわけで、だからこれまで通り投稿したって変わらないという立場を取るひとがいます。そのひとたちは、ちょっと語気を荒げると、規約変更によってXの使用方法を変えたひとたちを似非科学信者といわんばかりに糾弾していますが、そういうことをしても、もっと建設的な話し合いをするべきという以上のコメントはできないでしょう。

 ここで建設的な話し合いとは、正論をぶつけ合うことではなく、感情とも折り合いをつけどう共存するべきかの着地点を見つけることです。そういうことをしないと無意味だと思います。なぜなら技術者のいうことは確かに技術的に正しく、かといってそれが正しいからとウォーターマークを追加したりGlazeの加工をしたりするひとを陰謀論者というのは、あまりにもクリエイターをバカにしているからです。それでは絵師さんが聞く耳を持たないのも当然だと思います。

 折り合いをつけるということをするためには、なぜ絵師さんたちが学習されるのを嫌がるのかということについて考えなければなりません。技術者は絵師さんたちの気持ちを「努力が蔑ろにされるようで嫌だ」、「AIに好き勝手されるのは嫌だ」、「AIを許容していると思われたくない」という風に推量しているようです。しかし本当にそうでしょうか。実際にアンケートでも取ったならまだしも、ソースもなく基本的には「大体そんなところでしょう」という言葉で済まされており、それ自体かなり暴力的だなと思ってしまいます。

 また実際に上記した気持ちだったとして、なぜ非科学的な行動をとると糾弾されてしまうのでしょうか。そういうひとたちは初詣にいきながら意味ねえと思っているのでしょうか。たしかにそういう知り合いもいます。ですが初詣に行くこと自体をバカにするひとはそうはいないでしょう。非科学的であることは、ワクチンへの陰謀論など公共の福祉に反する場合を除けば、信条の自由に含まれる範囲です。バカにすることはないと思います。もちろんイラストにウォーターマークをつけることは、公共の福祉に反することではありません。それは描き手の権利であり、それを好むか好まないかは受け手の権利です。

 もうひとつ大きな問題なのは、絵師さんの気持ちを慮る際の解像度の低さでしょう。わたしはAIと言語関連の研究*1をしていますが、その領域でよく言われることは「AIを使えるのは、用途領域においてAIよりも能力のあるものだけだ」ということです。

 これはどういうことかというと、AIが出力した生成物の是非を、判断できるひとだけがAIを使うことができるということです。その是非を判断することができるひとというのは、基本的にはAIを使わなくてもその生成物を出力できるひとを指します。*2生成物に対して使えるか使えないかが判断できるということは、使えるものだけを摘み上げることができるということですから、ここでようやくAIを使うことができるといえるわけです。

 このことは、文化の維持という側面にも大きく影響してきます。たとえばイラストひとつをとっても、それにはなんらかの文脈というものが載っている場合が多くを占めるはずです。無から有は生まれないので、なにかを参照したりする、そこに作家性が生まれ、それが固有性にあたり、われわれはクリエイティビティと呼んだりします。その作家性というものは、消費者には言語化できないかもしれませんが、絵師さん同士では〇〇をモデルにしただとか、こういった絵柄を使っているだとか、描き手の共通言語で語ることができるものです。これはイラストに限らず、ものづくりというものを続けていけば、確実に直面することだと思います。そしてその文脈を共有し、育み、ときには反抗することで、新しい文脈が生まれるわけです。それは連綿と続くことによって文化やジャンルとなっていきます。

 しかしながら、絵を描いたことがないひとは、その文脈を理解することができません。これはどんな天才でもそうです。手を動かしてはじめて見えるものというものは、確実にあります。漫画家のいう『ドラゴンボール』がすごいと、漫画を描いたことのない(あるいは突き詰めて読んだことのない)ひと*3がいう『ドラゴンボール』はすごいでは、着眼点も違うでしょう。かくいうわたしもそれなりに漫画を読んできたつもりですが、『ドラゴンボール』におけるコマ割りや吹き出し、キャラの配置による視線誘導の説明を受けたとき、そこであらためて『ドラゴンボール』のすごさに気がつきました。そしてそれはおそらく『ドラゴンボール』が神と言われている理由の浅瀬も浅瀬に過ぎないはずです。ここでなにを言いたいかというと、見ているだけでは分からないこともあるということです。

 そして作家性というのは、自覚的に絵に作用させることで生まれるわけですから、イラスト未経験者によるプロンプティングには反映されません。トレパク寸前のLoRAなどではその限りではないかもしれませんが、あれは反AIを批判する立場からしてもやりすぎだと一定のコンセンサスが取れているものだと思っています。

 少々前置きが長くなりましたが、未経験者によるAI絵の作成というのは、この文脈を断つことに他なりません。それはもともとあった文化やジャンルを荒らしているともいえます。それに対する強い忌避の現れとして、非科学的であろうと明確に拒否を示すというのは、そこまで批判されることではないと思います。個人の努力の否定ならまだしも、多くのひと、それも同志が培ってきた歴史を外から荒らされることほど嫌なことはありません。

 もちろん全ての絵師さんがこういう考えだとも思っていません。ここまで考えてないだろうと反・反AI論者にいわれると、それはわたしもアンケートを取ってないですから分かりませんとしか言いようがないです*4。ですが、言語化はしていないまでも、それなりのクリエイターがAIによって内輪ノリが破壊されていく気持ち悪さに耐えかねているのではないでしょうか。

 なにがいいたいかというと、技術側が正論パンチをするだけでなく、非科学的な行動を取っているからと煽り、冷笑し、バカにする行為はいかがなものかということです。そんな非建設的な対立煽りをするでなく、どうすれば良いのかということを検討していくべきでしょう。AIイラストの可能性を一番引き出せるのは、間違いなく絵描きです。理性的に「助言」してあげているのかもしれませんが、技術者側が絵師さんを敵に回してしまっている状況を見るに、それも感情的な行動にしか思えません。

*1:ぼかしています。

*2:その点AIプログラミングという作業は、ひとではなくコンピュータが生成物の可否を判断してくれるので、いの一番に使える領域になったともいえます。

*3:漫画を描いたことがないひとの多くは、何千シリーズと読んでモノを語る批評家という一部の際物ではなく、ただ読んでいるはずです。

*4:しかし先述したように、一部領域では職業者がこういう嫌悪感と文脈が絶たれてしまうことによる後進育成への不安感を、実際に口にしています。