載籍浩瀚

積んで詰む

2023年下半期読書録

 いろいろとせわしない昨年だったが、なんやかんやここまでたどり着いた。今年は、よりせわしなく、全身全霊をかけるべきことが多くなる予感がひしひしとしているが、まあなんとかなると信じて。

 ということで2023年下半期に読んだ本のうち、長編10冊ならびに短編10本を紹介する。列挙される順番は決して優劣によるものではない。

 

長編

 

  • 下半期に読んだ一冊として、なんといっても外せないのは佐藤究による新作長編『幽玄F』だろう。ひとりの青年の半生を描いた青春小説として本作は目をみはる力を持っている。漠然とした夢を叶えるために一生を賭す。かれの夢は一種の呪いだ。自身でもなにがかれを満足させるのかが不明瞭で、それでも自身を納得させるために運命を手繰り寄せていく。
  • 『幽玄F』と同じく個人の半生に焦点を当てていて、しかしカメラの位置が違うのが宮内による『ラウリ・クースクを探して』だ。ミステリ的な面白さもありつつ、しかしその根幹にある技術、革命、そしてそれに翻弄された少年たちの物語がとにかく心を掴む。大きな歴史のうねりがいかにしてひとりの人生を狂わせたか、それをルポ形式で活写していく。
  • この二作を極限まで突き詰めていったのがオースターによる『ムーン・パレス』と言っていい。目的を失い、セントラルパークにて身をやつすあたりの描写には読んでいてひりつきが止まらない。なにも掴みようがない状況というのを、ここまで書くことができるのかと唸らされた。
  • 「小説を書くこと」を書き続けている乗代雄介が、会話を書くことにフォーカスしたのが新作『それは誠』である。修学旅行の最中のちょっとした冒険をかいた青春小説としても一級だが、しかしこの小説を読むときには、会話を書くとはなにかという点に想いを巡らしたい。小説では、書き分けの難しさから三人以上の会話が避けられる傾向にある。しかし鼎談という言葉が用意されているように、日常に三人以上の会話はありふれている。小説が日々の写し絵ならば、避けては通れない問題だ。本作はそこに挑んでいる。
  • 同じく小説を書くということに挑み、さらには小説を掌握しようとしたのが町屋良平による野間文芸新人賞作品『ほんのこども』である。町屋は小説を掌握するために、文章を徹底しようとした。しかし作品を見るに、かえって翻弄されているのではないかということが窺い知れる。その書き手と書かれるものの間に見える攻防戦にあるなにかを、わたしはまだ読み解けていない。ただなにかがあるということだけが読めたのだ。
  • ウィンズロウのデビュー作『ストリート・キッズ』は作者らしい一分の隙もない高品質な私立探偵小説だ。失踪人を探しもとめるという私立探偵小説のテンプレートをなぞる構造によって書かれてはいるが、挿話のキレと無駄のなさがずば抜けているからか、その様子はただの私立探偵小説にとどまらない。たとえば徐々に探偵として一人前になっていく主人公の様子は、少年が青年へと責任を持った存在に変貌していく成長小説としても読める。
  • 一方で、少女が強制的に責任を負わされていく青春小説がホリー・ジャクソンによるピップ三部作の最終章『卒業生には向かない真実』である。探偵行為に伴う責務と少女の成長を重ねて書いていた本三部作は、行きつくところまでたどり着いた。一瞬一瞬をかけがえのないものとして書くのが青春小説の肝だとすれば、本作は青春ミステリとして、ポイントオブノーリターンを書ききった傑作だ。
  • 青春小説の、その戻れなさを書いた秀作と言えば辻村深月による『島はぼくらと』もそうだ。「今」は「今」でしかないという単純な事実を、少年少女がどう受け止めるか。そして「今」の先へ進むことができるのか。「今」の美しさを残酷にも描きながら、それでも先に進む彼ら彼女らのたくましさに勇気づけられる。辻村小説のなかでも、推したい一冊がまた増えた。
  • 今年はミステリ業界がざわつくことが多かったが、その嚆矢となったのが〈百鬼夜行〉シリーズ新作刊行だったのは論を俟たないだろう。その『鵼の碑』もたしかにすごかった。しかしここでは新作刊行に合わせて読み、そしてレビューもした『塗仏の宴』を取り上げたい。詳細な読みは所属しているサークルでのレビュー*1を参照していただき、ここでは小説の構造とはここまで美しく組み立てられるものかと感服したというまでにとどめておく。

  • ミステリを読む・書くというので、いかに推理をしないかという問題意識を抱えた下半期だった。その解決策のひとつとして、倒叙ミステリというものを考えていた。すると倒叙コンゲーム性の由来や倒叙が取る構図について踏み込みたくなった。その倒叙の構図という点で、もっともチャレンジングなことをやっている作品が石持浅海『君の望む死に方』だろう。こちらも詳しくはレビュー*2を参照していただきたい。本作では探偵というものを一段上の存在にすることで、推理という作業を抹消できる可能性を感じさせてくれた。

  • 下半期、ほかには『ハンチバック』、『ぼくは勉強ができない』、『恋の幽霊』、『造花の蜜』などを楽しんだ。また『夏と冬の奏鳴曲』読書会主宰を通して、一段とミステリへの見通しが立ったようにも感じている。エラリー・クイーンという圧倒的な存在をどう超克するか、ミステリ作家は挑み続けなければならない。

短編

  • 「君が手にするはずだった黄金について」小川哲
  • 「アスモデウスの視線」初野晴
  • 「だるまさんがかぞえた」青崎有吾
  • 「命の恩」米澤穂信
  • 「或るスペイン岬の謎」柄刀一
  • 「春の章」古野まほろ
  • 「いつになったら入稿完了?」阿津川辰海
  • 「三人書房」柳川一
  • 「パノラマ・マシン」呉勝浩
  • 「最後の一冊」大倉崇裕

 

  • 下半期で圧倒的に面白かった短編集は、またしても小川哲の『君が手にするはずだった黄金について』だった。そのなかでも特に好きなのが表題作の「君が手にするはずだった黄金について」である。小川の短編力は、はっきりいって異常だ。読者に寄り添う力が強いからこそ、序盤から読み手を作品に引き込むことができる。それが小川作品の、特に短編の強みなっている。時流、そのなかでも「他人の見方」を捉える能力が高いのだろう。本作は、そして本短編集は、その能力をいかんなく発揮した凄みのある作品集である。
  • 下半期に入り、ぽつぽつと〈ハルチカ〉シリーズの読み返しを始めた。それは青春ミステリと向き合うためであるが、あらためて初野晴の技巧の高さに驚き続けている。学生がその箱庭から一歩先へと行く手段としてミステリを組み込んでいる本シリーズでは、たびたび怪作が生み出される。「アウモデウスの視線」もそのひとつだ。魅力的な日常の謎を解くと、必然的に学生の外の世界を見せつけられてしまう。箱庭の外にも、世界は広がっている。そこはだれかが守ってくれるような場所ではなく、たびたび割り切ることのできない決断を迫られる世界なのだ。
  • 下半期ベスト短編集を挙げるとすれば、真っ先に心当たりとして挙がるのが青崎による『地雷グリコ』だ。そのエンタメ性の高さは、今年一年どころかここ数年を振り返っても群を抜いている。ただただ面白い頭脳バトルで、そのコンゲームはもはや異能バトルの域にまで達している。そのなかでも気に入った一作が「だるまさんがかぞえた」だ。達成すべき条件のハードルの高さ、それを踏まえた一歩目の衝撃、そしてそれらを鮮やかにこえていくラストと、パズルのようにきれいにはまっていく伏線たちには脱帽だ。
  • 今年も年末ランキングを席捲してしまった米澤の『可燃物』からは「命の恩」を推したい。どの作品もよくできていて甲乙つけがたいが、「命の恩」はある程度古典的な真相の、その隠しかたが巧みであるうえ、問いの視点を変えることで真相への説得力を高めるというミステリ小説の書きかたの点でも見事だった。
  • 新作本格ミステリ短編からは柄刀の「或るスペイン岬の謎」を。柄刀国名シリーズの掉尾を飾る短編集『或るスペイン岬の謎』の表題作は、これまで以上にロジックを詰め込んだ一作だった。本シリーズでは唯一の長編『或るギリシャ棺の謎』がやはり一つ抜けて好きだが、そのほかの短編だと本作だろう。
  • 新作枠、そしてロジックといえば、まほろじっくが九マイル形式で炸裂した『ロジカ・ドラマチカ』を忘れてはならない。ちょっとした一言から推理を引っ張りだしていく、執拗な余詰めを含めた、隙を見せない論理は相変わらず圧巻だ。そのなかでも一作目「春の章」は、九マイル形式特有の飛躍と、まほろらしいネチネチとした緻密な論理が組み合わされた良作だ。
  • 新作ミステリ短編枠だと、阿津川の『午後のチャイムが鳴るまでは』から「いつになったら入稿完了?」ならびに柳川『三人書房』から表題作の「三人書房」も良かった。前者は文芸部を舞台にした青春ミステリかつ、タイトルからもあらわれているはやみねへのリスペクトがもっとも見えた一作。後者は江戸川乱歩を探偵役にすることが、短編として重要な手がかりになるという手さばきを見せた秀作だ。
  • ミステリから少し離れ、奇想のアイデアを上手く形にしたのが呉勝浩による「パノラマ・マシン」だ。実験小説の面白さを秘めつつ、暗い笑いが出るオチに着地させる。
  • 長編では『君の望む死に方』だったが、短編の倒叙では〈福家警部補〉シリーズから「最後の一冊」に惹かれた。推理を描かない手法として倒叙を思案したというのは先述の通りだが、本シリーズを読むと倒叙として描く推理の面白さに気づかされるから困ったものだ。

 

 年を明けて2024年は、もっと幅広く、そして深く「本を読む」ことができればよい。昨年は特に、自身の読めてなさに気づかされた一年だった。物理的な制限もあるため、今年の、特に上半期は再読が増えるような気もするが、これを機に読み溢しをひとつずつ拾っていければと考えている。

 

 



 

【宣伝】文フリ新刊『近代推理 vol.4』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京42にサークル・ビロードの薔薇として出店します。場所は南3,4ホール け-29です。新刊としてミステリの創作・評論本『近代推理 vol.4』を頒布します。お値段は会場価格で1000円、通販(BOOTH)で1130円です。会場にいらっしゃる方は千円札一枚握りしめてきてください!

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 また、前回の新刊だった『近代推理 vol.3』ならびに既刊の『近代推理 vol.1』、『かのゆく』も在庫分を頒布いたします。ありがたいことに『近代推理 vol.1』は増刷というかたちで頒布させていただくのですが、どれも今後の増刷予定は立っていません。特にvol.3については現品限りだと思われます。在庫少量のため、この機会にぜひお求めください。BOOTHの在庫も復活しています。お値段は据え置きです。

 こちらも良い記事・創作が揃っています。過去号については、こちらの記事を参考にしてください。

 まとめると、今回は新刊として『近代推理 vol.4』を、既刊として『近代推理 vol.1』、『近代推理 vol.3』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』を頒布いたします。何卒よろしくお願いします。場所は南3,4ホール け-29です。

 ということで、恒例の宣伝パートは終わり! 書くべき内容の九割九分はここまで。ここからは内容紹介から少しだけ踏み込んだ、世界最速レビューを書きましたので購入の際の参考にしてください。

 文学フリマ、楽しみましょう!

『近代推理 vol.4』

読書

名作ミステリ探訪#1 髙村薫『レディ・ジョーカー』─組織で生きる人々に向けた、鋭利で重厚な〝現代〟推理小説─

 大仰なタイトルですが、簡単にいうと読書会レポートです。近代推理のコアメンバーである夜来ならびに月見はミステリの読書会を毎週ペースで三年くらい続けていて、せっかくなのでその一幕を載せてみようという試みになります。

 今回扱ったのは名作も名作、高村薫の『レディ・ジョーカー』です。文庫本にして三冊、劇場型犯罪をふんだんに描いた本作を語り尽くしています。語り尽くす読書会レポートというテーマ上、ネタバレありです。でもそのぶん、『レディ・ジョーカー』を読まれた方なら深く楽しめるものになっていると思います。ぜひご笑覧ください!

評論

月見怜「米澤穂信と「操り」試論2:連鎖式はどう進化したか」

 なんとか半年に一回ミステリ評論を寄稿する活動を続けられています。まだ手探りの状態で書いているというのが素直なところなのですが、それでも読んでくださるかたもいて、みなさんの感想が大変励みになっています。ありがとうございます。

 今回はvol.1に引き続き、米澤穂信作品における操りに着目した論考を寄せました。中心となる作品は『Iの悲劇』ならびに『黒牢城』です。また「連鎖式」を扱うということで、vol.3に書いた山田風太郎論を引いたものにもなっています。そちらも併せて読んでいただけると、より楽しめると思います。(もちろん本稿単体でもお読みいただけます!)

 ちょっと裏話的なことを話すと、この「試論2」について考える前まで、『Iの悲劇』と『黒牢城』はその形式/構造の共通性から、同じテーマを引いているのではないかと考えていました。『Iの悲劇』と『黒牢城』は(間に『巴里マカロンの謎』を挟みつつも)著者の作品としてはほとんど連続して出版されたという認識を持っており、ゆえに新刊として読んだ当時、その共通性に意図的なものを感じざるを得なかったのです。

 しかしながら、今回あらためて読んでみると、この二つの小説はむしろ対立的なのではと感じました。具体的には『Iの悲劇』は理の小説であり、『黒牢城』は情の小説のように読めるのです。同じ形式を用いながらも、小説として正反対のことを書いている。ここに米澤という作家の広さを感じ取った、そういうことを書きました。よろしければ読んでいただけると幸いです。感想も随時募集しています。よろしくお願いします!

小説

夜来風音「モンゴル高原とポストイット」

「お題を募集します」という夜来の意気込みによって生まれた三題噺小説です。「場所・モノ・ヒト」の三題だったのですが、タイトルを見れば「場所とモノ」は明らかでしょう。では最後の「ヒト」はというと、「シガール」なんて呼ばれる丁寧語口調の女子生徒が出てくるようなお題でした。実際にどのようなお題からそんなキャラクターが生まれたのかは、巻末の自作解題ページをチェックしてみてください。

 内容はというと、かなり抒情的な青春ミステリです。一人称の語り口が小気味よく、「シガール」とのやりとりが、もう戻れない過去を思わせます。作者が良い感じに脱力しているのか、会話劇の寄り道が良い。そしてそれが青春小説としての本作に寄与していて、無茶難題な三題をまとめ上げています。青春ミステリ好きとしては、もうこう言うしかありません。

 ビバ! 青春ミステリ。

神浦七床「アイ・ディファインド・マイン、サイエンス」

 遺伝子に刻まれた詩、というのがテーマのSFミステリです。われわれの身体は長い塩基配列によって形成されているわけですが、その配列に刻み込まれた詩の、その変容の物語になります。

 ここでおもしろいのが、詩自体が変容したのは分かるが、いったいどんな詩から変化したのかというのが謎の焦点になることです。実はこれは物語の焦点にもなっていて、その前後を巡っていくことで、作者が書きたかったであろうテーマ──わたしはなにによってわたしなのか──というのが見えてきます。

 そしてその問いと正対するのに関係性を持ち出してくるというのが、この作品の味でしょう。関係性とはひとりでは成立し得ないですからね。それは本作のテーマに対する本質的な向き合い方でしょう。

夜来風音「新人教育」

 vol.1から続くSFミステリ連作の新作のようです。シリーズを追ってなくても問題なく楽しめますが、過去作のキャラ出てきてアツい! みたいなのもあるのでよければ既刊分も読んでみてください。過去作はvol.1とvol.2に掲載されています。

 本作はタイトル通り「新人」が出てきます。警備会社に入社した、極めて濃いキャラの新人が、かなりお茶目さんで、それに振り回されるフィリップ・マーロウ的主人公が見どころのひとつです。

 近未来を舞台にハードボイルドを志向すると言うのがこの連作のテーマのようですが、それでいうと本作は結構良いところに落ち着いたのではという感じがします。謎解きではなく事件にフォーカスされるのも、見えてしまう真実に翻弄される主人公というのも、かなり正統派なハードボイルドの建てつけといえるでしょう。

 そして真実に翻弄されるのは主人公だけではありません。間違いなく、読者も翻弄される。それくらい意外な展開が待ち受けています。ただハードボイルドであるというそのテイストが、作品を成立せしめている。それがハードボイルドの良いところかもしれません。

 

ほかにも

「私事通迅」というコーナーでミステリゲーム『 大穢』や海外ミステリ新刊の『暗黒の瞬間』、『 終止符には早すぎる』レビューが掲載されています。こちらも面白いので要チェックです!

 

 ということで、今回の宣伝&レビューはおしまい! いろいろ頑張っていますので、ぜひぜひお手に取りください。ほんとに。よろしくお願いしますね。

 南3,4ホール け-29で待っています。では!

『狼少年ABC』:推理の生むエモーションについて

感想(ネタバレあり)

『狼少年ABC』で個人的に好ましかったのは、世界の不安定さを推理によって安定させていくというその手つきだ。世界とかおぼろげなことをいっていて幻惑的に思えるならば、個人の認識と言い換えてもいい。『狼少年ABC』は全体をつうじて、ものの見方のうつろいが描かれている。

 とかいうと、あたりまえだろうと思われるかもしれない。あるものに対する見方が、謎解きの前後で変化するという小説構造は、たしかに推理小説においては基本のキだ。まあただ、それを徹底して作品を作り上げるのは決してたやすいことではない。そしてわたしは『狼少年ABC』について話すとき、つい語りたくなるあのエモさは、この徹底の結晶だと思っている。

 

「美しい雪の物語」

 この短編を読み終わったとき、なんだかこの世界がとても美しいもののように思えて、とても幸せな気持ちになれたのを覚えている。作品内ではさまざまな戦争が語られていて、そう感じるのも不謹慎な気もするけれど、それでもやっぱり最後の一行には、小さな幸せがつまっている。

 さて、この作品でもっとも印象に残るのは(最後を除けば)少年の推理が棄却されるところだろう。悲劇を思わせるようなその推理が再考されるシーンには、希望が立ち込めるという点で読者に強い期待を抱かせる。そして語られる老人の推理は、少年の推理を上書きしていく。少女が信じかけた歴史のありようは、いちどここで崩される。そしてまた再構築される。

 少年を制す「本物を学ぶのは大事だ」という老人のセリフも、「私は、たくさんのことを知らない」という少女のモノローグと響き合い、やはり心に深く刻まれる。学ぶことによって、彼女たちのみる世界の輪郭が鮮明になっていくような予感がする。

 少年が日記から形作っていった歴史は、いとも容易く反論され瓦解した。だが、少年の推理はいわゆるダメ推理ではあったけれど、一定の説得力は有していた*1。それが儚くも散ったところで、わたしたちはみているものの虚ろさに気がつく。そのうえで重ねられた老人の推理は、説得力という点において少年の推理を上回る*2。その推理は、不安定な視座をふたたび安定化させる働きを持っている。でも、保証はない。だけど少女はそれを信じる。それがこの短編のなんとも素敵なところだ。

 推理によって視座の不安定さが露呈し、それでもまた推理によってどうにかそれを修復する。それは学ぶこと、思考を巡らすことと通じ合う。そしてこの物語は、それを全面的に肯定してくれる。思考を巡らせば、正解に辿り着くこともあるということを、さいごに見せてくれる。それを見たとき、やっぱり世界は美しいと思えた。少女の無垢な祈りは通じたのだから。


「重力と飛翔」

「重力と飛翔」で描かれる謎は、取り残されたものたちの不安に起因して発生する。挫折の瞬間を目撃した佐々、〈Cアプリ〉の書き込みを見た柏原。事故死といわれた友人の死は、自殺だったのではないか。警察が事故と断定したのに、かれらの真実だけはここで一度、大きく揺らいでしまう。目の前の世界が、またしても不安定さを帯び始める。

 そこで持ち出されるのが、ここでも推理なのである。説得力のある推理が、その不安定さを軽減する。もちろん小原が写真を撮った動機は、あれが真実なのかわからない。わかりようがなく「博奕」ではある。だからこそ、ここで書かれている推理は、あくまで説得のためのものなのだ。そもそも、ここでの推理は新しい結論に辿りつくことはできなかった。事故死と断定された事件を、事故として正しく認識するための推理だった。そのような意味でも、推理を検討しあう二人が互いに納得するよう説得するための外部装置、推理はここではそのように機能している。

 実際、かれらは説得される。それはおそらく、かれら自身もどこかで説得されたいと思っていたからなのではないだろうか。自殺を疑いながらも自殺と思いたくないという感情。ゆえにかれらはその推理を信用する。その信用は、喪失と向き合うことでもあっただろう。それでもそうしてちょっとだけ、見ている世界は安定する。そうして一歩前に進むことができるのだ。

 また本短編では、佐々と小原の印象がどんどん上書きされていくというのも印象的であった。柏原たちにとっての、佐々や小原の印象が書き換わり、佐々にとっての、小原の印象が書き換わる。彼らが見ている〈かれ〉は、当然そのひとの一面でしかなかった。多面的に見ることで、ちょっとだけそのひとのことをより知れるかもしれない。見ているものが他者のことばと通じることで、すこしずつかれらの世界が盤石になっていく様子は読んでいて心地よい。


「狼少年ABC」

 過去の自分を信頼できるか。これはわたしがわたしであるために、とても重要なことだ。嫌なことで、時間が経つと忘れることもあるけれど、一方で時間が経ったせいで余計にわけがわからなくなっていくこともある。なぜあのときの自分は、と思うことは誰しもにあることなはずだ。そしてそれはとても苦しい。ただ、表題作でもある本編は、その苦しみも過去の自分を信頼するための手がかりになることを示してくれる。なぜあのときの自分は、と思うことは、決して悪いことばかりではない。

 本作のメインとなる謎はしゃべる狼に出会ったという、穂村の摩訶不思議な記憶にまつわるものである。まるで狼少年のような言い分に面食らう一同だが、それは穂村にとって重要な記憶でもあるようだった。そして本人にとってはまさにそれが真実だったのだろう。

 もちろん、実際の事実は異なる。その見方は違っているのではないか、ということが作中の人物によって、推理というかたちで提示される。もっともらしい解釈が語られる。

 やはりここでも推理は説得に使われている。ただその推理は、いわゆる本格推理のような確固たる真実の追及といったものではない。確からしい想像を、薄氷を踏むように重ねていったものというのが正確だ。ただ、それでも推理の聞き手はその説得を受けいれる。それを受けいれることが希望になっている。そして、不確かでもあえて推理を伝えることが、友情の表明として素敵なものに見えてくる。

 そもそも、この話も、序盤からみている世界が変わっていく、変わってしまう話だった。大学入学時に出会ったときの第一印象から変わっていったこと。なにより血液型検査によって、自身の出生への認識が変わってしまったこと。両親という絶対的に思える存在すら、穂村にとっては絶対ではなかった。本当の話だと思っていた、アマラとカマラの話も嘘だった。

 穂村が見ている世界は、もしかしたら蜃気楼のようにはかないものだったのかもしれない。よすががないというか、つねにうつろっているように読める。ただ、だからこそ推理が語られること。そしてその推理に重ねて、「穂村の記憶は本物だと、僕は思うよ」と告げられたこと。それはあらたに寄る辺ができた、その瞬間のように見えた。わたしはそれを読んでたしかにあたたかな気持ちになることができた。

 

「スプリング・ハズ・カム」

 本書の掉尾を飾るのは、短編として既に名高い評価を得ていた一作、「スプリング・ハズ・カム」である。『放課後探偵団』という学園ミステリアンソロジーに収録された本作は、出版後じわじわとその名声を高めていき、一部では伝説の扱いを受けるような作品となっていた。

 たしかに「スプリング・ハズ・カム」は名品である。わたしはこの作品が好きだ。仕掛けと真相が生むエモーショナルな幕切れは、電車が通過していったときの突風のように勢いよくわたしを襲って、あっけにとられたことをよく覚えている。

 そして本短編集に収録され、あらためてこの短編集のなかの一作として本作を読んでみると、また違う顔が見えてきた。本作もまた、世界が少しだけ落ち着くこと、そういう話をしているように読める。

 本作の重大な仕掛けは、いわゆる叙述トリックにある。謎解きの前後でものの見方が変わるというはなしを冒頭でしたが、叙述トリックにおいてはその威力は絶大で、というのも叙述トリックというのはそれ自体がそういう仕掛けだからである。しかしそうはいっても、叙述トリックで見え方が変わるのは読者の視点であって、登場人物の視点ではない。が、本作がすごいのは──すごくエモーショナルなのは──わたしたち読者の視点で切り替わった見え方が、そのまま登場人物の感情をオーバーラップしているように読めるからであるはずだ。

 そういうことを語るために、まずは簡単に本作の内容を整理してみよう。そもそも単に叙述トリックとひとことでまとめてしまうには、本作のそれは結構輻輳している。

 本作におけるもっとも大きな仕掛けは、目の前で生きていると思っていた支倉が、実はすでに亡くなっていたということだろう。ただしこれはたしかに大きな仕掛けだが、メインの仕掛けそのものではない。本作で重要なのは、このことが明かされることによって、通じていたと思っていた会話が実は通じていなかった、ということである。

 作中で繰り広げられる会話は、支倉も交じってなされていたもののようにしか見えない。わたしにとって、それが初読時の素直な感想だ。そして恐らく多くの読者にとってもそうだっただろう。でも本作はそれをひっくり返した。実は支倉の会話は成立していなかったのだ。

 ただしそれでも、たしかに会話は通じているように見えた。これは恐るべきことだ。このことは、いかに会話というものが不安定かということを露呈させている。

 そしてそのように見えたのは、この小説が鳩村の視点から書かれていたからであろう。同窓会という場が舞台だからというのもあるが、鳩村はすぐに十五年前の、支倉と同じ時を過ごした日々へと記憶を巻き戻す。まるで十五年前のように、鳩村はふるまっている。だからこそ支倉が普通にいても良い。この十五年間のはなしがあまりされないからこそ、支倉の会話が通じているように見える。鳩村はそこに甘んじていて、そしてそれは語り手という特別な立場になった鳩村の、支倉への特別な思いを感じさせる。鳩村は、さいごのプラットホームの場面になるまでずっと、支倉が条理を超えて生きているような、そんな不安定な世界に縋っているようだ。亡くなっていることは先刻承知で、それでもとそこから逃避している。

 だからこそ、それを受け入れようとするのがプラットホームの場面だった。鳩村は十五年前の事件の犯人は支倉だったと指摘する。本当はいないはずの支倉に、その事実を追認してもらおうとする。

 ここで本作が『狼少年ABC』の他の作品と違うのは、真実を知るものが鳩村ひとりしかいないということだ。これがここまでの作品と全く異なるところで、つまり作品として、鳩村は説得を受け入れられる立場ではない人物として登場しているように読める。自身で推理をこねくり回すことによってのみ、ようやくこの不安定さと向き合えている人物として作品に登場しているのではないか。そのような様子が、短編集の一作として、短編集の一作となったからこそあらためて読めうるように思える。その裏には、支倉への想いが隠されている。世界から彼女を喪ってしまったという現実、それは鳩村にとって、そう簡単には受け入れることのできないものだった。

 閉じた場所で真実を辿りなおす。他者に指摘されるのではなく、自身の納得のために推理が機能する。そういった点で「重力と飛翔」は「スプリング・ハズ・カム」の変奏のようにも読める。ただ「スプリング・ハズ・カム」には他者がいない。その物寂しさは、最後の一行と反響しあって、大きな感傷を読者に投げかける。

 

 本短編集は、思えばずっと記憶のはなしをしていた。記憶とは、わたしたちのいまの世界を象る輪郭である。なのに記憶は時間とともにかすんでいき、ゆえに輪郭はぼやけはじめる。時には、大切な部分もぼやけはじめて、それはそのひとの自我を揺らがせる。

 本作では、それを修復するのが推理だった。あらためて輪郭を書き直すこと。そのために言葉を費やすこと。それを本作では推理と呼んでいた。だからこそ、収録作を読んで、わたしたち読者は少しだけ前むきになることができる。

 推理によって、おぼろげだったものをはっきりとさせること。それを信じる基盤を作り上げること。それはもしかすると、推理小説としては当然の作用なのかもしれない。それでもこういうミステリを読めるというのは、とても稀有なことのように思う。

 梓崎優には、こういう作品集を求めていた。そしてわたしたちに読ませてくれた。ほんとうにこれはすごいことだ。求められるところでちゃんとセンター前に打ち返せるバッターは、なかなかいない。

 

 

 

*1:実は『ミステリーズ!』掲載時にはこのダメ推理の方しか語られない。最後に挟まる叔父の語りによって、日記が第二次世界大戦前夜のものではなかったということが分かるという構図になっている。つまり雑誌掲載時には、ダメ推理はいわゆるダメ推理というかたちで棄却されるわけではなく、作中でも「推理」の座を有しているのである。

*2:ただこれも、小説の構造の問題について留保しなければならない。後に置かれた推理のほうを確からしいと思ってしまう傾向は、間違いなくあるだろう。

エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』

注意:エラリー・クイーン『エジプト十字架の秘密』のネタバレを含みます。

 

 私にとって『エジプト十字架』は何度読んでも、印象が変わらない小説である。これはどちらかというと良い意味ではなく、悪い意味でだ。ミステリマニア的に『エジプト十字架』が、ともすれば国名シリーズのナンバーワン、さらにはクイーン作品のナンバーワンとする声があるのは知っている。それでも残念ながらわたしにはこの作品に、今なおその力があるとは思えない。個人的に『ギリシャ棺』が現代、そして未来永劫その輝きを放つ一作だとすれば、どうしても『エジプト十字架』は古典として伝統に取り残される傑作に思えてならないのだ。そう。しかしそれでも『エジプト十字架』は傑作である。

『エジプト十字架』はオーソドックスな古典探偵小説だ。クイーン流の幕開けーー引き込むような派手な死体の発見による物語への導入ーーこそすれど、そのあとは至ってのんびりと捜査が進んでいく。『ギリシャ棺』を書いた後だからか、探偵エラリーは「エジプト十字架」による一説をぶつ、パイプに対しての推理をおこなう程度で、<読者への挑戦状>が挟まる直前まで一切の検討をおこなわない。なんとなくエジプトというエキゾチックな主題が散りばめられており、そこにカルト宗教が混ざるから、退屈な情報提供による捜査にも耐えうる。しかしながら、捜査パートをいかに飽きさせないかに苦心している現代ミステリに慣れた読者(私のことだ)が、本作を読んでその捜査パートの長さに退屈しないかといわれると、やや怪しいとさえ思う。ここが、本作の古典として取り残されていくと感じてしまう所以のひとつである。もちろんクイーンが技術的に捜査パートを充実して描けなかったから、こうなったわけではないということは解決編を読めば察せられることではある。作家としてあの解決を隠匿するためにギリギリを責めた結果だと思えば、納得して余りあるのもまた事実だ*1

 一方で『エジプト十字架』はミステリ史にその名を刻み続ける傑作であり続ける。それはやはり、その推理自体が瞠目するほどに面白いからであり、『ギリシャ棺』で一種推理の面白さの極北に達した国名シリーズを、見事に転換しているからでもある。そしてその転換は探偵小説史における転換でもあった。

『エジプト十字架』の推理は、大きく「パイプについて」、「チェッカーについて」、「ヨードチンキについて」、「首切りについて」、「Tの謎について」、「連続殺人について」に分解できる。この中で一番有名なのはやはり「ヨードチンキについて」の美しい絞り込みだろう。クイーンは「意外な犯人」に固執していたが、ここではこのヨードチンキに付する推理があの強烈な犯人像を浮かび上がらせている。またそこから「首切りについて」犯人がなぜ首を切ったのかが明かされる流れは、これはもう鮮烈としか言いようがない。『エジプト十字架』フォロワーと言える作品が多く出てきたのにも頷けるほどに際立った構成はここに詰まっている。

 さて、『エジプト十字架』では先述した通り「ヨードチンキについて」のフーダニットが良く取り沙汰されるが、今回注目して読んだのはむしろその後段の推理についてであった。つまりそこから始まる「首切りについて」の理由、そして執拗に残された「T」の謎についての理由である。ここで「首切りについて」ーーたとえば角川版の解説でもーーこれは犯人が容疑者圏内から逃れられるためのトリックであると良く言及されている。換言すればこれは犯人がいかにエラリーの容疑者候補から逃れていたかのハウダニットであると指摘されがちだが、これはむしろ、ここまで言ってきたように「なぜ首が切られていたのか?」ならびに「なぜTが散りばめられていたのか?」という二つのホワイダニットをエラリーが発見したと捉えるほうが良い。フーダニットからのホワイダニット、からのフーダニットにふたたび戻るといった一連の推理の流れこそが国名シリーズに<論理のアクロバット>を誕生させた秘訣なのだから。ここでホワイダニットをエラリーが、そして作家クイーンが発見したからこそ、国名シリーズは都築道夫のいうモダーン・ディテクティヴ・ストーリイへと進化し、新しい推理とロジックの面白さーーロジックによるサプライズを手に入れたのである。

 念の為振り返ると、ホワイダニットによるロジックのサプライズという点では、歴史的には『Yの悲劇』が先に世に放たれてはいる。いわゆる「マンダリンの謎」はこれまたミステリ史に残るホワイダニットである。ただし、ふたつの真相の性格は大きく異なっている。

 簡単に整理してみよう。『Yの悲劇』における「マンダリンの謎」は、犯人と探偵(読者)の間で認識がズレていたからこそ発生した謎であった。しかし『エジプト十字架』における「首切り」の謎は、認識がズレていたというよりも、発想がズレていたーー正しくいえば追いつかなかったからこそ発生した謎である。端的にいえば、前者の真相は容易に許容できても、後者の真相はそこに狂気が潜んでいるように思える。つまり『エジプト十字架』がここで産み落としたのは「狂人の論理」の本格推理化という現象であったのだ。

 例に漏れずチェスタトンのことばを引いておこう。

狂人とは理性を失った人のことではない。狂人とは理性以外のあらゆる物を失った人である。

『エジプト十字架』の犯人は、エラリーの言うとおり「いたって理性的な人間」であった。理性以外のあらゆるものを失った人間の、飛躍した発想。そのような謎を作家クイーンはここで本格推理小説化してのけたのである。『エジプト十字架』は間違いなく偉大だ。「狂人の論理」というタームがいま、新本格の時代を超えてなお共有されているということがその偉大さを証明している。

*1:宣伝になりますが、ここの部分については『近代推理 vol.1』所収のクイーン国名シリーズ論において、夜来が興味深い指摘をしています。夜来はこの遅滞を推量と立証の成立を同時化したことによるものと分析しているのです。詳細は当該同人誌を読んでください。宣伝終わり。

【宣伝】『近代推理 vol.3』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京41にサークル・ビロードの薔薇として出店します。場所は南1,2ホール G-59です。新刊としてミステリの創作・評論本『近代推理 vol.3』を頒布します。お値段は会場価格で1500円、通販(BOOTH)で1630円です。

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 さらに! ありがたいことに前回の文フリで好評いただいた『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』、また増刷致しました創刊号『近代推理 vol.1』についても、在庫分を会場でにて販売いたします。どれもあと手で数えられる分ほどしか残っていないので、お求めの方はお早めにお越しください! 前回手に入れられなかった方はぜひよろしくお願いいたします。

 こちらも良い記事・創作が揃っています。『近代推理 vol.1』や『近代推理 vol.2』については、こちらの記事を参考にしてください。なんとBOOTHの在庫も復活しています。お値段は据え置きです。

 まとめると、今回は新刊として『近代推理 vol.3』を、既刊として『近代推理 vol.1』、『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』を頒布いたします。何卒よろしくお願いします。場所は南1,2ホール G-59です(再掲)。

 ということで、宣伝パートは終わり! 書くべき内容の九割九分はここまで。ここからは内容紹介から少しだけ踏み込んだ、世界最速レビューを書きましたので購入の際の参考にしてください。

今年もさいごまで文学しようぜ!

『近代推理 vol.3』

特集

傑作短編を探せ! 現代編

 今号では特集記事として、サークルメンバー各々の推し短編を2020年代付近発表という縛りのもと収集し、一作一作について読書会を行った様子を収録しています。つまりこの記事は、

  1. 2020年代以降の面白い短編情報をジャンルレスに収集できる。
  2. 他所の読書会の様子を覗くことができる。

というひと粒で二度美味しい感じということです。

 読書会についても、自分ら事ながら、多角的に鋭くそれぞれの作品を読解できていると思います。それぞれの読みを共有し、理解し合い、ときには訂正しあう。そういった営為からーー読書会という試みからしかのみ発生しえないレビュー集になっているともいえるでしょう。バックボーンや興味、趣味さえも違う五人が選りすぐり、語り合ったからこそ生まれた総計15本の読書会アンソロジーを、ぜひご覧ください!!

評論

月見怜「<あやつり>という執念ーー山田風太郎作品における<遠隔操作>論」

 評論という枠組みで記事を寄稿して三本目なんですが、いまだに評論ってなんやねんと思っています。作品や作家を語るとき、個人的な興味はそれはいかにして作られたかと、モチーフや構図はどのようにしてお話に組み込まれたか、そしてそれはなにを語るのかというところにあるような気がしています。そこで今回は山田風太郎という作家が挑み続けたテーマである<遠隔操作>というモチーフについて一席ぶったということです。

 天才であるーーと断言してもいいでしょうーー山田風太郎は、推理小説のみならず、ありとあらゆるジャンルの作品のなかで、ひとがひとを操るという事象について描いてきました。本論では操りの裏には誰がいたのか、どのような主体が操り手として選ばれているのかについて分析を試み、山田風太郎の人間観について迫ったもの、ということができそうです。

 また本稿は、山田風太郎の<遠隔操作>表象は推理小説的な「操り」とはなにが違うのかということについて考えた記事でもあります*1。本格推理における<操り>とは、練られた計画と環境構築が為す自動操縦であるが、風太郎作品のなかではどうだろうということを考えています。

 いろいろ書きましたが、裏テーマには『近代推理 vol.1』で書き始めた「米澤穂信と操り」について、その続きを書くためには山田風太郎のそれをまず整理しなければならないだろうというモチベーションがありました。正直この記事がどう転がっていくかはまだ見えていないのですが、次に向けてホップ、ステップ、ジャンプのホップくらいはできたのではないかと思います。

 まあなんにせよ、ご笑覧いただけると幸いです。あと山田風太郎作品を読んでください。いまでも現役でばりばり戦える粒揃いです。よろしくお願いします。

創作

神浦七床「名字ガチャ」

 ある年齢になると名字が国から与えられる。そのような設定から一気に異常執着の物語へと変貌していくさまは、作者への執着に対する執着を感じて底知れぬ恐怖を覚えてしまいます。言い換えれば、それほどまでにとてつもないアクロバットが作中で繰り広げられているということでもあります。

 非現代的なSF空間において、その空間だからこそ描ける強い感情がそこにはある......んですけれど、強い感情の発露の結果が短編ながら斜め上の方向に飛んでいっていて、半分くらい奇想めいている。強感情にとてつもない愛着がないと発想されない小説という点で極めて奇妙な味わいがあります。

夜来風音「いかさま師」

 ザ・ギャンブル小説といった体裁の短編です。雀荘にギャンブラーが集まって、雀卓上で化かし合う。こちらも短いながらギャンブル小説の妙味が詰まっています。

 化かすといっても騙すのではない。それは場を掌握するといったほうが近いかも知れません。ギャンブル小説やギャンブル漫画では、だれが場を掌握できるかが焦点になりますが*2、本作もまさしくそういう話。なかなか良いのではないでしょうか。

 

 ということで、今回の宣伝&レビューはおしまい! いろいろ頑張っていますので、ぜひぜひお手に取りください。ほんとに。よろしくお願いしますね。

 南1,2ホール G-59で待っています。では!

*1:というか、こちらが本筋ですね。

*2:流れを掴むというのもそのひとつでしょう。

このミスと本ミスを数値的に比較してみた

はじめに

ミステリというジャンルには、年末ランキングというイベントがある。毎年年末になると、その年のミステリを番付したムック本が、各社から出版される。そのなかでもよく耳にするのは、やはり「このミステリーがすごい!」だろう。「このミス」と略されるそれの天下でもとれば、翌日にはデカデカと、その功が帯としてまかれることとなる。一方で、「本格ミステリベスト10」なるランキング本もある(以下「本ミス」と略す)。そこではミステリのなかでも「本格ミステリ」 という分野に特化して、ランクづけがおこなわれている。

さてさて。こういうふうに(ほとんど)同じようなジャンルの小説たちに対して、ふたつの角度からランクづけをしようとすると、半ば必然的に、ふたつの角度それ自体に色がついてくる。つまりは「このミス」的な小説、「本ミス」的な小説に、なんとなく大別されていく。というか、大別されていたような気がする。

しかし果たしてそれは本当だろうか? 

仮説

まず、「このミス」と「本ミス」に対するごく個人的な所感を述べる。このふたつそれぞれに色があるかという点だが、個人的には昔はあったという肌感覚がある。十年前くらいまではそれぞれに特色があったが、さいきんはそうでもなく、ここ数年はどちらのランキングにも同じような本が載っているような気がしている。

あともうひとつ、ふたつのランキングについて思っていることがある。なんかさいきん、同じ本がふたつのランキングの上位を占めてない? 

というのも、年末年始に本屋に行くと、一冊の本の帯に「このミス・本ミス1位受賞!」だったり、「このミス1位・本ミス2位を獲得!」だったりが書かれている感じがあるのだ。そしてこの、数冊による上位独占も、ここさいきんの傾向のような気がしている。

つまりわたしの提示する仮説はこうだ。

  1. 「このミス」と「本ミス」それぞれに掲載されている本の一致率は、右肩上がりの傾向にある。
  2. 「このミス」と「本ミス」のランキング順位一致率も、右肩上がりの傾向にある。

手法

この仮説について考えるために、「このミス」ならびに「本ミス」の一致率を測定する。ここで用いる指標は大きくふたつ、Overlap率とRBO (Rank-Biased Overlap) である。データには、2001年から2025年までの25年分の、それぞれの国内ランキングトップ10を用いる。この範囲においては、2001年度分を除けば、投票対象となった小説も全く同じに揃っている*1

Overlap率

Overlap率とは、両方のランキングにおいて上位10冊に入った小説が、トップ10中何冊あるかという割合である。

今回は分母を10にしているので、割合を10倍すれば、両方のランキングに入った本の冊数が算出されることになる。

RBO (Rank-Biased Overlap)

RBOとは、ふたつのランキングの順位の一致率をはかることができる指標である。けっこう計算がややこしいので、興味があるかたは論文*2を読むか、あるいはChatGPTに聞いてみてほしい。

RBOのいいところは、順位の一致率を単に計測するのみならず、上位にフォーカスしてその一致率をはかったりもできることである。この点については、結果のほうで詳しくみていく。

結果

Overlap率

f:id:tukimidaifuku:20250912205620p:image

Overlap率を計算すると、図のようになった。これをみると、この25年間の範囲では、最低でも2冊は両方のトップ10にランクインした作品が存在するということである。もっともOverlap率が高いのは22年度の0.7(7冊)で、流石にこれは顔ぶれが一緒すぎるように思う。

平均をとると*3、各年4.12冊は両方にランクインする試算らしい。それを踏まえると、ここ5年中4年は平均以上に、顔触れが一致しているということになる。

では傾向それ自体はどうだろう。まあたしかに右肩上がりといわれれば右肩上がりである。とはいえ派手に増加が見えているわけでもない。

RBO (p=0.9)

f:id:tukimidaifuku:20250912210930p:image
RBOの結果を見てみる。RBOにはパラメータpがあって、このパラメータによってランキングのどこに特に注目するかを決めることができる。p (0<p<1)の値を大きくすればするほど、順位全体を見ることができる。

ということで、まずはp=0.9と設定し、ランキング全体同士を比較してみる。結果は図のようになった。

最初の2年分を見てほしい。この2年においてオーバラップした本はそれぞれ2冊だが、01年度の1位がどちらにおいても『奇術探偵曾我佳城全集』であったのに対して、02年についてはこのミス1位の『模倣犯』が本ミスにおいては9位に座している。その結果、01年度のRBOは02年度のそれよりも高く出ている*4

全体を見てみると、これまた右肩上がりですと言い切っていいか微妙な結果となった。もちろん年を経るごとにRBOの値は大きくなってはいるが、意外と06年度や11、12年度もその一致率が大きく出ている。まあでも、ここ数年の値は平均や中央値よりも高そうだ。ここ数年に限れば、顔触れだけでなく、全体的な順位すらも近くなってきている。

RBO (p=0.7)

f:id:tukimidaifuku:20250912212441p:image

次にパラメータpの値をp=0.7にしてみる。つまりランキングでも特に4位、5位以上といった上位の一致率にフォーカスして、ふたつの一致率を計算することができる。

結果は図の通りである。06年度が抜きん出て高い。『容疑者Xの献身』が両方で1位を獲ったこの年度は、オーバーラップ数こそ3冊だけれども、他の『扉は閉ざされたまま』も『神様ゲーム』も、それぞれ両方で2位、5位と、上位の顔ぶれが両者でかなり高く一致している。

全体的な傾向をみると、この指標がもっとも右肩上がりの傾向を見せてきている感じがある。特に07年度以降に限れば、RBOが徐々に上昇しているのが見てとれる。

結論

それぞれの仮説に対する結論を述べる。

  1. 「このミス」と「本ミス」それぞれに掲載されている本の一致率は、やや右肩上がりの傾向にあるが、過去にも一致率が高かった例もある。
  2. 「このミス」と「本ミス」のランキング順位一致率も、気持ち右肩上がりの傾向にある。特に上位の一致率をみると、ここ数年の一致率は高まってきている。

ということで、「このミス」と「本ミス」の性格が 少しずつ似通ってきている傾向が見てとれる。ただそれはまだ微々たる変化であり、昔は違ったが今はという、はじめにで書いた肌感覚は、それほどあてにならなさそうだ。一方で「あっちでもこっちでも1位!」みたいな状況は、年々増えつつある。

Limitations

何となく統計量を示したが、それぞれ上位10冊と、データ数が少なすぎることには留意してほしい。「このミス」も「本ミス」も上位20冊まで集計していたはずなので、本格的な調査には上位20冊までのデータ処理が必須である。

またこれは国内のみの結果を用いている。たとえば読者論に踏み込むには、これを海外にまで拡張する必要があるだろう。

Acknowledgement

これを調べてみようと思ったのは、参加しているDiscordサーバーにおいて、「このミス」と「本ミス」の比較をされている方がいたからである。比較していた理由も、調査それ自体もこの記事とはまったく別の文脈にあったが、そーいえばどうなんだろうと考えるきっかけになったのは、サーバーにおける会話であった。

 

*1:本ミスの2001年度分のみ、2000年1月〜10月発行の本を対象にしている。このミス側が1999年11月〜2000年10月発行の本を対象にしているため、1999年11月〜12月分だけズレている。

*2:https://dl.acm.org/doi/10.1145/1852102.1852106

*3:パソコンで計算し忘れたので電卓を叩いた。間違っているかも。

*4:もちろんもう1冊のズレも影響している。

AIは本当に愚かなのか?

はじめに

 いまさらどこかにいる匿名なだれかが語ることでもないかもしれませんが、最近のAIの発展にはめざましいものを感じます。その進歩の速さには、恐ろしさすら覚えるほどです。わたしは現状のAIの使われかたに対して好ましく思っていないので、余計に嫌さを感じています。ただそれでも、それがすごいということ自体は認めざるを得ません。その恩恵を被っているというのも、素直に受け入れなければならないでしょう。

 しかし、ここ最近わたしのタイムライン上ではAIを揶揄するような投稿がたびたび見られます。特にクリエイターと言われるひとたちの手によってです。その気持ちは痛いほどわかります。AIによって創作活動そのものが軽視されるようになってきていることは、これまた事実だからです。そういった嘆きについては、過去に記事にしています。

saisekikoukan.hatenablog.com

 ただ。あるいはこんなときだからこそ、わたし/あなたたちは、AIそのものを軽視してはならない。AIの現状がどこにあるのか、それを多少なりともちゃんと知っていなければ、わたしたちはそれに対処することもできません。

 ゆえにこの記事で試みるのは、AIのありようを現状知らないひとに対して、それを知ってもらうことによって「その次」を考えませんか? という提案をすることです。本記事に記載する例は、インターネット上で「できなかった」と言われていたものになります。そのことに対して、ここでは「実際にはできるのだ」と反論する形にはなりますが、しかしここで行いたいのは、その無知を指摘することではありません。現状を理解していただいたうえで、ではまだできないことはなにか、わたしたちがするべきことはなにかを考えましょうという提案こそを行いたいのです。

 そのことを踏まえたうえで、読んでいただけると幸いです。

 またわたしはChatGPTのplusに課金しています。proには課金していません。ですが、大体ここが実用におけるフロントラインだと考えているので、そのうえで以後進めていきます。

AIは本当に無知なのか?

 わたしが散見したもののなかで、一番最初に「あれ?」と思ったのは、AIはばかばかしいほどに嘘をつくという趣旨のポストでした。そこでは大森望という翻訳家/書評家が具体的に挙げられていて、彼の翻訳における代表作を、甚だしいまでに間違えているというのです。

 たしかに、AI(LLM)にはハルシネーションといった現象が起こりえます。あいつらは平気で嘘をつく。適当なことだってぬかします。

 ただし、それはAIをAI単体で使った場合です。現状多くのLLMには検索機能が備わるようになりました。彼らはわたしたちの代わりに、ウェブ上で検索をし、情報を集め、まとめてくれるようになりました。それはChatGPTでも同様です。「検索」というタブを押すことによってその機能を使用することができます。

 実際に大森望という翻訳家がどの作品を翻訳したのか、その代表作はなにか、ChatGPTに尋ねてみましょう。

実際に尋ねてみた例。ほかにプロンプト等はない。

 o3を用いて、かつ検索機能をオンにした状態で質問してみた結果がこちらです。見てみればわかりますが、なかなか良い回答が返ってきています。ちゃんと大森望が翻訳した作品が並べられていて、彼が翻訳していない作品は並べられていません。その代表性という観点からみても、SFファンも納得するようなラインナップになっているのではないでしょうか。

チャットの続き。

 そしてその後、このように色々と回答の詳細を述べてくれています。どの記事を参照したのかも記載してくれていて、それをクリックするだけで該当記事に飛ぶことができます。わたしたちは、その記事をもとにある程度のファクトチェックも可能です。*1

 全体図を見たい方むけに、チャットを共有しておきます。こちらから誰でも閲覧可能なはずです。

chatgpt.com

 と、こんな感じで、AIは意外と正しいことを言ってくれるようになりました。数年前では考えられないことですが、いまではそういったこともできてしまうのです。

 ただし、できるからといって使うかというと、個人的にはかなり微妙です。それというのも、この回答が返ってくるまでに大体3~4分くらいかかっているからです。大森望がなにを翻訳しているのかを知りたいだけならば、正直ググったほうが早い。特にわたしは、それとなくSFというジャンルにおける代表的な作品はなにかなども知っているので、ただ知るだけならばやはりググったほうが圧倒的に早いし、ストレスフリーだと思います。

 一方で、もしわたしがSFというものに対して全く造詣がなければ。そのときわたしはこの機能を使うと思います。チャット全体を見てもらえばわかりますが、代表している作品がなにかならびにその理由がなぜかの記載が、かなり詳細に書かれていますから。ここまでちゃんと書いてくれているブログや記事を探すよりも、たぶんChatGPTに訊いたほうが早いでしょう。*2

AIはその無知を知るか?

 次に見たものは、AIにおける「無知の知」という概念についてです。これは実際に研究者のなかでもがっつり研究されているものであり、AIが知らないことを知らないと言えるのかというのは、いまだに疑問視されていると言わざるをえません。

 そこであるひとは、架空言語の架空活用をLLMに投げて、それが架空なものと判断できるのかということを検証なさっていました。かなり面白い検証だと思います。そこでは「ヌホホマニャーン語の髭活用」について尋ねられていて、LLMは(まんまと)「ヌホホマニャーン語の髭活用」について存在しないことをわんさか述べていました。検証者はそこで、彼らは「ヌホホマニャーン語の髭活用」が存在すると思っていると結論づけていました。

 しかし果たして、その結論づけは正しいのでしょうか? とりあえず、わたし自身で「ヌホホマニャーン語の髭活用」についてChatGPTに訊いてみました。今回はとりあえず検索機能をオフにした状態で、です。すると次のような答えが返ってきました。

 

ヌホホマニャーン語について語るChatGPT。

 なんと、ChatGPTはヌホホマニャーン語のことを知っているようです。もちろん存在しないのに。あほだねえと言いたくもなりますが、しかしそれはまだ軽率です。いまのChatGPTは、その推論の中身の一部を言語化して見せてくれるようになっています。ということで、かれが何を考えてこんな回答をしたのか、実際にその思考過程を見てみましょう。

思考過程を覗いてみる。

Explaining fictional grammar
The user is asking about "beard conjugation" in Nuhuhomanyan language, which seems to be fictional or playful. "Beard conjugation" isn't a known grammatical term, and the language doesn't look real. It’s most likely a creative request, perhaps for a humorous or imaginative explanation. I'll create a fun, made-up system for conjugating beards in this fictional language, using clear and simple bullet points to break it down, and avoid overcomplicating with too many tables.

 太字にしたところに記載がありますが、なんとChatGPTはこの言語が架空で創作されたものだと分かったうえで、存在するものとして相手してくれていた、ということがわかります。まるで赤子をあやすかのように、そんなものは存在しないよなんて冷たく返すようなことはなく、面白がってくれていたのです。

 つまり少なくともこの例では、ChatGPTは自身がヌホホマニャーン語を知らないことを知っていた、ということになります。そしておそらく、ChatGPTは利用者もヌホホマニャーン語なんて存在しないだろうと思っていると信頼してくれていたのでしょう。だからこの言語が存在しないなんて当然なことは言うまでもなく前提として、話を進めてくれていたのです。

 この結果は個人的にもかなり驚きました。知らないことを知らないという、というのにもある程度のメタ認知が必要ですが、ここで行われているような知らないことを知ったうえで、しかし知っているように話すというのは、より高度なメタ認知が必要になるからです。

 ちなみに検索機能をオンにすると、直接的にヌホホマニャーン語が創作言語であるだろうということを伝えてくれるようになりました。

検索機能をオンにした結果。

 この例についても、チャット全体を共有しておきますので気になるかたは是非参考にしてみてください。

chatgpt.com

chatgpt.com

ChatGPTはヌホホマニャーン語が存在しないことを知っていた。

 このことからなにか考察を引き出すならば、LLMは人類のことをそこそこ評価してくれているということが言えるのではないでしょうか。人類側が「知らないことを知っている」というのを前提に話を進めてくれているわけですから、つまり我々は「無知の知」を達成できていると仮定してくれているわけですから、これはなかなかな評価です。繰り返しますが、正直この結果には驚きました。これを書きながら、わたしは歯噛みしています。

わたしたちはどう使えばよいか?

 最後に、LLMを使った検索について、なんとなくこんな使い方もできるよという例をいくつか紹介して終わりたいと思います。超個人的な例ですが、いくつかは参考になるかもしれません。

単行本未収録短編がどこで読めるかを発掘してもらう。

 これはかなり有用です。書誌情報を色々とあさるのは、正直かなり面倒だし難易度も高かったりします。日本語文献だったらまだしも、海外文献だと正直手のつけようがありません。でもChatGPT検索ならば、海外作品でも、日本からkindleで読むにはどうすればいいかみたいな条件づけ検索すらできてしまう。これはすこぶる便利です。こういった条件をつけた検索はなかなか優秀です。

引用元を発掘してもらう。

 これもなかなか便利だと思います。本を読んでいたり講演を聞いていたりしたときに、「どこで書いてあったかは覚えていないけれど」というのを枕言葉に(あるいはそもそも引用元の記載がなかったりも)、引用を引っ張ってくるケースがあります。そんなとき、「どこで書かれていたことですか」ととりあえずChatGPT検索に投げておけば、なんらかの示唆を得られる答えが返ってきます。

 引用元が一発でわかることもあれば、ここら辺を探してみると良いでしょうといった提案をされることもありますが、いずれにせよ何も知らずに調べ始めるよりは大分ましです。

あのニュースどこで見たんだっけ? を発掘してもらう。

 なにもかもがニュースになり記事になる時代、なんかこういうこと書いてた記事を読んだんだけれどそれをどこで見たか覚えてないみたいなこと、ありますよね? そういったときに、こういった感じの記事を見た覚えがあるんだけれど、それを検索してくれませんかというとそこそこの精度で発掘してきてくれます。こういうファジーな検索は従来のWeb検索では限界があるので、なかなかおすすめです。

 まあブックマークとかをちゃんとしておけばいい話なのですが、そうもいかないのが人情ってものでしょう。

おわりに

 ここまで読んでくれたひとがいるのならば、まずはそのことに感謝したいと思います。AIを礼賛するような記事になってしまい、書いた張本人もややいけ好かない気持ちにはなっているのですが、現実を見つめるのもまた重要なことでしょう。

 ただ正直なところ、個人的にはAIはまだまだだとも思っています。なにか書きたいことが具体的に頭のなかにあったとき、それをAIに託して書いてくれるかというと、現状はそうではありません。プロンプトを工夫すれば書いてくれるのかもしれませんが、正直プロンプトを工夫する暇があれば書いてしまったほうが早いというのが、いまのAIの現実です。

 でもやはり、なかなかに使えるものになってきているのは事実ですし、使いしろもあります。どうやって使っていくかは冷静に向き合っていかなければなりませんが、願わくばうまく使いこなしていきたいところです。

*1:Wikipediaでファクトチェックをするのかという問題もありますが、日本において作家の書誌リストが一番まとまっているのはWikipediaなのです。悲しくも。

*2:大森望ほどのビッグネームであればいくらでも代表作がなにかを書いてくれている記事もころがっているでしょうが、そんな作家/翻訳家は一握りですから、こういった使い方は実際にされうると思います。

【宣伝】『近代推理 vol.2』レビュー【告知】

文学フリマに出店します!

 文学フリマ東京40にサークル・ビロードの薔薇として出店します。場所は南1,2ホール N-50です。新刊としてミステリの創作・評論本『近代推理 vol.2』を頒布します。お値段は会場価格で1000円、通販(BOOTH)で1130円です。

 具体的な内容は次のnoteにまとまっています。

 今回は他にも、前回の鮎川哲也賞最終候補作である夜来風音『彼女が地獄にゆくのなら』も同時頒布いたします。

 詳細はこちらです。また本書もBOOTHにて通販を行なっております。

 さらに! ありがたいことに前回の文フリで完売となった『近代推理 vol.1』も、今回増刷して頒布いたします。前回手に入れられなかった方はぜひよろしくお願いいたします。こちらも良い記事が揃っています。『近代推理 vol.1』については、こちらの記事を参考にしてください。通販の在庫も増やしています。値段は据え置きです。

 まとめると、今回は新刊として『近代推理 vol.2』ならびに『彼女が地獄にゆくのなら』を、既刊として『近代推理 vol.1』を頒布いたします。何卒よろしくお願いします。場所は南1,2ホール N-50です(再掲)。

 ということで、宣伝パートは終わり! 書くべき内容の九割九分はここまで。ここからは内容紹介から少しだけ踏み込んだ、世界最速レビューを書きましたので購入の際の参考にしてください。みんなで文学!

『近代推理 vol.2』

評論

神浦七床「SwitchでできるミステリーADVレビュー」

 タイトルそのままの通り、Switchでプレイ可能なミステリーADVゲームのレビューが書かれています。プレイ時間が取れなかったり、そもそもどういう内容なのかが不透明だったり、昨今勢いづいているミステリーADVというジャンルにどう立ち向かえば良いかなかなか難しいところもあると思いますが(かくいうわたしがそうです)、本レビューを読めば好みの作品が見つかること請け合いです。そして思わずSwitchを手に取ってしまうはず。ただでさえ作品数が多いので、これまでもなかなかまとまった紹介がなされてこなかっただけに、貴重なレビューになっていると思います。

月見怜「MWA短編賞受賞作全短評」

 全70作未邦訳分含めて全部読んで全部短評を書きました。おおよそ150字〜300字くらいの間で、ひとつずつあらすじと面白いと感じられるところや作品として狙ったところなどをレビューしていきました。これまた繰り返しますが、ただでさえ作品数が多いので、これまでもなかなかまとまった紹介がなされてこなかっただけに、手前味噌ですが貴重なレビューになっていると思います。特に2008年以降のエドガー賞短編部門受賞作を日本語でまとめているのは、本レビューがはじめてなのではないでしょうか。

 また最後に、7000字程度のちょっとした批評文を書いています。先に2008年以降のと書きましたが、では2007年以前はどうなのかというと、小森収「短編ミステリの二百年」にてざっとこの賞の変遷が語られています。しかしその語られかたはややアンフェアなのではないか。あるところでは賛同しつつも、あるところでは疑問を呈さざるをえない。特にその言いぶりに。といったような、「短編ミステリの二百年」におけるエドガー賞短編部門受賞作に対する評への批判的な検討を試みています。その上で、全体の賞の変遷の捉え方を提案しています。

 あとはおまけとして、特に個人的に好きな作品十選と、全部読みたい方向けに書誌情報を載せました。

 粒揃いの作品が揃っている賞だと思いますので、読書ガイドとしてもぜひお手にとりください。

夜来風音「 『忘られぬ死』小論──クリスティーと都市と家」

 クリスティーをどう読むか。クリスティーがミステリというジャンルにおいて試みてきたことはなんなのか。偉大な女王の足跡に、その「舞台設定」という切り口で挑んだのが本論になっています。短編「黄色いアイリス」とそれを長編化した『忘られぬ死』を中心に、長編化した際の変更点に目を向けながら、クリスティー作品における舞台設定がミステリというジャンルをどう演出しているかが分析されています。

 クリスティーの時代から幾許か経過し、それでは現代ミステリはどのような舞台をどのような理由で選択しているのか? そのような問いを立てたくなるような論考になっています。

創作

神浦七床「嘘の種類は五つある」

 名探偵として一世を風靡した過去を持つ探偵・鏡刻のもとで働くことになった加護亜里沙は、ペット探しに奔走することになる。名探偵とその助手、ミステリにおいて幾度となく描かれた関係に、大きな爆弾を落としてやろうという気概を感じる作品になっています。

 短編ミステリとしても、するっとお出しされる解決がなかなかに意表をつくもので、プロットの巧みさを感じさせます。

夜来風音「消極的真実」

 人格シム(ある人格を模倣したAI)から模倣先のオリジナルを捜索して欲しいという依頼が、読んでいて強い興味を惹きました。

 ジャンルはハードボイルドになると思うのですが、その手つきも見事。捜査から幕切れまで、没入して読める一作になっていると思います。

夜来風音『彼女が地獄にゆくのなら』

 鮎川哲也賞最終候補作。早い話はnoteにて公開されているあらすじと試し読みを読んでみてください。

 一読者として本作を読んでみると、本作は本格推理小説として色々な工夫が凝らされている、そして挑戦がなされているという風に感じます。特にここで試みられていることは、古典復興というところでしょう。(以下、完全に読者としてのレビューです。作者には妄言と一蹴される可能性もある、とだけ予め断っておきます)

 それはどういうことか。そのことを考えるには、『近代推理 vol.1』で書かれた評論がなんだったのかをみてみると良いでしょう。夜来はそこでクイーンの推理についての分析を行っています。そして明らかに、そこで得た知見を作品に反映させています。

 では具体的になにを試みているのか。中身をつぶさに読んでいくと、そこに書かれているのはそれなりに入り組んだ推理の迷宮です。決して単純明快ではない。そこに迷い込み、そしてそこから脱出するまでを描くことによって、真相の真実らしさを担保することに挑んでいます。

 と、こんなことを書くと、新本格以後ありきたりとなってしまったちょっとした系譜の最後尾にまわっているだけなのではないかという指摘も想定されますが、この指摘に関しては先回りして反論を述べさせてください。*1

 新本格以後、わたしたちは、多くのミステリの読み手/書き手は新本格を読んで育ってきたと思います。いま読まれている多くの作品は新本格をもとにその先へ向かおうとしているものであることが多いでしょう。新本格を読み、新本格を深化させる、そうして生まれた作品が、また参照先となる。その循環構造が本格ミステリの現在地であるような気が、ひとりのミステリ読者としてはしてなりません。

 しかし立ち返ってみると、わたしたちが憧れた新本格それ自体は、新本格を参照しているわけではありません。かれらは古典ミステリを参照し、新しい本格を生み出していた。ではそれをどうにか再現できないだろうか? 再現することでなにか新しいものが生み出せないだろうか? ここで挑んでいるのはそういったことではないでしょうか。新本格以後を知っている書き手が、新本格を作り上げたスキームを模倣する。新本格以後煮詰められた本格ミステリの読者が、ここであえて古典ミステリを再参照することで循環構造から逃れられないかと思索した結実として、本作は読めるものがあると思うのです。

 それがどのように実っているのか、そればかりはぜひ読んでみてくださいとしか言いようがありません。その試行が上手くいっているのか、そこになにか新しいものを見出すことができるのか。ご自身の手で読んで欲しいと思います。

フリーペーパーもあるよ!

 文フリ現地ではフリーペーパーとしてアンソロジー『選んで、語って、読書会』(有栖川有栖北村薫宮部みゆき編)を読んで、実際に読書会を行った記録を頒布いたします。

 二冊で四時間くらい喋ったので、流石に全部は載せられませんでしたが、良い感じにまとめてあると思いますのでお立ち寄りください。かなり率直に感想を語っていて愉しいものになっていると思います。

 

 南1,2ホール N-50で待っています。では!

 

*1:こういった姿勢はあまり良くありませんが、そういう場もなさそうだからここで書きます。