載籍浩瀚

積んで詰む

『龍と苺』第一部感想

 天才は無自覚に人を傷つけるという。天賦のきらめきを見せつけられたとき、自分にはそれがないと否が応でも自覚してしまうからだ。しかし本当にそうだろうか? 傷つくのは、才能の差に絶望するからではなく、きらめきの底が見えるからではないか? あと少しだけ運があれば、その才能を引き寄せることができていれば、そこに辿り着けたかもしれない。そう思うからこそ、凡人は天才に傷つけられてしまうように錯覚する。そう、それは錯覚だ。そんな天才は大したことがない。本物の、神に選ばれたなかでも寵愛を受ける者。かれらのきらめきには底がない。なにかボタンのかけ違えがあれば、わたしもあなたになれたかもしれない。そんな僅かな希望も抹殺される。あいつは人ではないと、目を逸らすしかない。そんなあいつこそが本物の天才だ。凡人が、そしてそこらの天才が本物の天才に出会ったとき、そこに抱くのは絶望でも傷心でもなく、問答無用の畏怖だ。

 物語は14歳の藍田苺が、命を懸けられるものとして将棋に出会うところから始まる。幸か不幸か彼女は将棋の神に見初められていた。努力や経験といった綺麗事を無に帰してしまうような、圧倒的な天賦の才が彼女に宿っていたのだ。そして彼女は運命に導かれるようにアマチュア竜王戦へと参戦する。

 苺が足を踏み入れた棋界は男性中心に回っている。そこには暗黙の了解としての男女差別がある。その差別はいままで女性棋士が存在しなかったという、長い歴史のうえに築かれているものだ。どれだけの女性が棋士を目指したのか、それなのになぜひとりも三段リーグを突破できなかったのか。将棋の神へと幾度となく問われた問いに、男たちは体力と知力に、どうしようもなく差があるからだと答えてきた。あまりにも差別的だ。非科学的だ。しかし、歴史がそれを裏づけている。男たちは差別ではなく事実なのだと主張する。苺の才は、その歴史をひっくり返すところから始まる。スポンジのようにという比喩さえ陳腐に思えるほどの吸収力で、苺は将棋の腕を磨いていく。序盤の見どころは戦いのなかで次々と成長していく苺の姿だろう。彼女は敵の、そして仲間の経験を意に介さない。売られたケンカを買う。ただそれだけの動機で、鋭い勝負勘を持って次々と相手を叩きのめしていく。しかし彼女は出会ってしまうのだ。粗削りの才能では届かない相手に。きらめきでは苺に劣るかもしれないが、そのカッティングは本物の、プロ棋士という存在に。こうして藍田苺は本格的に棋士へと、棋界へと挑戦状を叩きつける。目指すはアマチュアのまま竜王戦を勝ち抜くこと。前代未聞どころか、想像すらできない偉業を目標に彼女は才能を磨き上げていく。

『龍と苺』はひと握りの天才たちと、そしてさらにひと握りの本物の天才の話だ。圧倒的な力を見せつけてこそ才覚だという前提があるため、手に汗握る物語のなかに本物の天才を描くというのは容易なことではない。しかし本作はそれを、苺が未経験者からのスタートであるということと向き合い続けていること、格闘漫画の形式を用いることの二点をもって達成している。特に前者には多くのアイデアが詰め込まれている。

 言うまでもないが将棋という盤上遊戯において、格下が格上に勝つことはない。未経験者がプロ棋士に勝つことは、天地がひっくり返ってもあり得ない。将棋には歴史があり、多くの棋士が血反吐を垂らしながら最適手を研究してきたのだ。個人の経験を凌駕することはあれど、才能は歴史を凌駕しない。だから天才というだけで苺が棋士を倒していくとなると、まるっきりの嘘になってしまう。この嘘を上手く吐くために、作者は惜しみなくアイデアを投下した。「負けに不思議の負けなし」を徹底し、「天才ゆえに勝った」で済ますことはない。どのようなアイデアが練り込まれているのかは、ぜひ自身の目で確かめてほしい。物語が進むにつれて、徐々に作者が嘘を吐けなくなっていく様子を含め、ひりひりとした緊張感が楽しめるはずだ。

 最後に格闘漫画の形式を用いているというところにさらっとだけ触れておこう。ありとあらゆるバトルものにおいて、理想的な状態とは、どちらが勝つのか先行きが見えないことを指す。主人公だから勝つというのがメタ的に察せられる状態は読んでいて緊張感に欠けるわけだ。その主人公補正を軽減するために、格闘漫画などでは敵キャラのエピソードを挿入する。どちらが勝っても物語が成立するように、つまり読者のメタ読みを防ぐために敵の格を主人公と同じところまで引きあげるわけだ。『龍と苺』はこれが上手い。苺がポッと出の天才だからこそ、プロにも意地がある。なんとならば、苺が出てくる前は、かれらこそが歴史を塗り替える天才だったのだ。意地と経験を前に負けるわけにはいかない。相手だって苺と同じくらい、あるいはそれ以上に勝たなければならない理由がある。だからこそ、勝敗が決すまで、どちらが勝つかまったくもって分からない。

 そうは言っても藍田苺は勝ち続けるのだろうと思われるだろう。だからこれだけは言っておこう。藍田苺はいずれ敗北を知る。そこからどう立ち上がるのか、そして物語がどう進むのか、竜王戦の勝者はだれなのか、ぜひ一読してほしい。そして最新話で全てがひっくり返されるところまで読んだら、『龍と苺』について語り合おうではないか。