載籍浩瀚

積んで詰む

青春映画として読み違う『PERFECT DAYS』

「こんどはこんど、いまはいま」

 2023年の劇場納めとして、ヴィム・ヴェンダース監督による一作『PERFECT DAYS』を見た。渋谷周辺のアートトイレを担当するトイレ清掃員平山の、繰り返しているようで徐々に変化する、つまりは平凡な日常の話だ。贅のない、最低限の暮らし。それでもかれの日々は笑みから始まっていく。

 平山へのファーストインプレッションは、はっきりいって「こうはなれない」という恐れ/畏れだった。その修行僧のような暮らしに、快楽があるように思えなかったのだ。ルーティーンに規律されること自体が悦びなのかもしれないが、それならばいわゆる会社勤めでも良い。わざわざ夕方前に仕事から解放される自由を手にしておいてなお、あえて縛りの大きい生活を送る平山に共感ができなかった。そのために序盤はただただ奇人の暮らしをウォッチしているだけだった。

 しかし物語が進んでいくと様子が変わってくる。平山以外の登場人物が画角に入り込んでくることで、かれのルーティーンが脅かされる。その変化が本作のエンタメ性に結びつくのだが、わたしはそこに青春映画の面白さを嗅ぎ取った。

 本映画を鑑賞したひとは、おそらくここで訝しむだろう。なぜならば、本編に登場するのは、そのほとんどが「青春」の日々を終えた人々だからだ。唯一例外として姪のニコが登場するが、カメラの中心は常に壮年期を過ぎた平山である。しかし、わたしはたしかに、この映画に青春の瞬間を感じた。この映画には青春映画の面白さがある。

 本作に感じた青春の一瞬は「呪い」と「箱庭」に端を発している。これら「呪い」や「箱庭」は青春小説や青春映画において、「青春」という情感を物語に帯びさせるために用意される物語的ガジェットのことを指す、わたしの勝手な造語だ。呪いとその解呪、また箱庭への揺さぶり、このふたつの構図は、良く青春モノにおいて使われる手法である、と考える。ここでこれらの具体的説明に踏み込むと、それだけで長くなってしまうのでここでは割愛する。本記事で言いたいのは、本映画ではこれらガジェットが効果的に用いられており、ゆえに青春映画の面白さが露呈してきているということだ。

 箱庭への揺さぶりは、ルーティーンが崩れかけるところそれ自体に顕れている。同じような日々を繰り返す平山の世界は狭い。まるで高校生の世界が学校と部活と塾と家で完結しているように、平山の世界は清掃先と銭湯に飲み屋、そして家だけで閉じてしまっている。しかしそこにニコやタカシという刺客が箱庭の外部からやってくる。そうして同じような日々に摂動が加わっていく。特にニコが現れたときには、絶大なショックを平山に与えたのだろう。その証拠に常に無口な平山がニコの前では饒舌になる。その揺さぶりの効果として現れたのが、ニコと過ごした日のルーティーンの狂いだ。

 しかしそこまでの揺さぶりを与えたのにも関わらず、平山の世界は崩れなかった。それは平山が高校生らと同じく、刹那的に生きているからだ。ニコに述べたとおり、平山にとっていまはいまでしかない。いまが連続した先に未来があるとか、そういう積算したスパンの概念を持っていないのだ。ゆえに一度箱庭に入ってしまったら、箱庭にいることが常態化する。外部からの揺さぶりがあるのにも関わらず、自由がありそうでない小さな世界に閉じ込められ続けている。この箱庭からの非脱却の様子に、まずひとつ青春モノのニュアンスを感じてしまう。

 もうひとつ、本作が「青春」を帯びる瞬間として、たびたび挿入される呪縛と解呪のエピソードがある。印象的なのはやはり、妹との再会のシーンだろう。あのとき平山は、そして妹は、なにかの呪縛から間違いなく解放されていた。本作のにくいところは、それがいったいどのような呪いだったのかを描かないところにある。しかしなにか憑物が落ちたということは、鮮やかに描出してくる。ほかにもアヤの一連のエピソード、友山からママを託されるシーンなど、平山はときにだれかの呪いを解き、ときに自身の呪縛から解放され、そしてときには新しい呪いをかけられる。その繰り返しに、やはり青春映画の面白さを感じてしまう。

 これら妄念は、監督であるヴェンダースロードムービーの大家であることと無関係ではないだろう。ロードムービー/ノベルと青春映画/小説は、用いられるガジェットの多くが共通している。たとえばここでも紹介した「箱庭」に対するアプローチはその顕著な例だ。ヴェンダースは本作を旅をしないロードムービーとして撮影したのかもしれない。しかしわたしは、それを青春映画の面白さとして読み違えたというわけだ。

 


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