載籍浩瀚

積んで詰む

『ダ・ヴィンチ・コード』を読む

 パリ旅行のついでに『ダ・ヴィンチ・コード』を再読した。ダン・ブラウンによるラングドンシリーズの二作目、おそらく同世代以前でその名を知らぬもののいない世界的大ベストセラーだ。

 しかし読んだ感想は非常に淡白だった。アクションと暗号解読によるサスペンスは流石のものだが、謎解きミステリとして読むとやや物足りないといわざるを得ない。それはこうとも言えるだろう。あまりにも陰謀論ーーあるいは単刀直入に暴論ーーすぎると。

 内容を述べる前に、本作を謎解きの本格小説として読むのはいささか不公平であるということを言い添えておきたい。本作の楽しみは先述したサスペンスのほかに、開陳される蘊蓄や世界と歴史をまたにかける陰謀劇の看破にある。世界政治の裏側でなにが行われていたのか、日ごろ見えないベールの内側を覗いているような感覚は快感としか言いようがない。物語であるということは分かっていても、「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている」と断言されてしまえば、こころのどこかで本当に現実にもあるのかもしれないと考えてしまうのが人情だろう。(しかしこの記述が勘違いにつながるとして論争が起こったということには注意したい)*1

 さらには一種の旅行小説として読める向きも多分にある。パリだけでもルーブルにサン・シュルピス教会やエッフェル塔、ロンドンも含めればさらにいくつかの観光地が描かれるからだ。ルーブルの秘密ーー防犯カメラは全部偽物だとかーーや、サン・シュルピス教会のローズラインについてなど、おそらく嘘っぱちなのだけれど、さも事実であるような筆写に童心が疼く(後者は公式に否定されている)。

 つまり、いまさらいうまでもなく面白い小説であることには違いない。しかしながら読んでいてのめり込めなかったのも事実であり、それは先にいったとおり謎解きに不足があるように感じたからだ。

 ではどのような不足かというと、ひとことでいえば説得力である。本作には大きくふたつの謎解きがある。ひとつは「聖杯」の正体などキリスト教の隠された秘密、さらにはヒロインであるソフィーの生い立ちの真実を暴くもの。もうひとつはもちろん、ラングドンたちによる暗号解読である。後者において本作はまるで世界を舞台にした脱出ゲームのように構成されている。出された暗号を解読すると、次の暗号が提示される。これを繰り返して「聖杯」の位置を暴くというものだ。作中でこれら両者は入り組みながら明かされていく。「聖杯」の正体こそが暗号解読の手掛かりとなる。一方でこのふたつは謎解きのレイヤーが異なっていることには留意しなければならない。「聖杯」の正体をめぐる謎解きにおいて、そもそもそれを謎として受容するのは読者とソフィーのみであり、ラングドンはすでに真実を知っている立場にある。あるいは本書を書く際に作者が書籍を参照したということを考えると、該当部の考察は、たとえばミステリ小説の謎のように作者がでっちあげたものではなく、ある程度骨子がしっかりとしたものであると考えて良いはずだ(もちろんそれがとんでも本である可能性はあるが)。実際読んでいてスリリングなのはこの「聖杯」の正体に迫る蘊蓄部分だったというひとも多いのではないだろうか。しかしながら困ったことに、これが暗号解読と入り組んで構成されているからこそ、物語が進めば進むほどこの雑学への信頼性が損なわれていくような感を覚える。それはがっぷり四つに組んだ暗号解読の側に牽強付会を見てとってしまったからだった。

 ラングドンらによる暗号解読の手続きは基本的に次の筋に沿っておこなわれている。まず提示された暗号から象徴的な語句を取り出す。次に語句が象徴しているものへとラングドンの本分である象徴学を用いて抽象化していき、そこからひらめきによって暗号が解かれ、暗号と暗号が指す場所の関連について説明がなされる。ここでくせものなのが、ひらめきと説明にある。ラングドンは説明においてなぜこの暗号を解くと、暗号が指す場所が浮上するのかを語る。しかしながらこの説明が、暗号を段階的に解くという演繹的な解法の説明ではなく、やや答えありきの帰納的な解説になってしまっているのだ。つまり象徴学的に演繹された概念から暗号の解まで、本来ないはずの論理の道を蜃気楼のように浮かび上がらせている。ここには論証はない。あるのは根拠の薄いアイデアだけなはずだ。起点と終点に妄想的な連関を見出してしまっている。しかもこのアイデアは、解答の正解という展開を持って現実になる。ロジックに欠ける説明が物語内の現実へと侵食していくのだ。それは逆説的に物語内の現実、特に絡まった聖杯伝説の説明の基盤を揺るがしていく。

 はてさて。ここで問わなければならないのは、この問題が『ダ・ヴィンチ・コード』のみが内包する個別的なものであるのかということだろう。もちろん否である。これはミステリ小説の、特に推理の担保を気にする本格ミステリ小説が内在的に持つ問いだ。そしてこの問いが問われることこそが、ミステリの面白さなのだろう。ミステリ小説の面白さは陰謀論と現実の狭間にある。本作はそれを前面に押し出して教えてくれる。

締めのまえに

 陰謀論とミステリのはなしに突っ込みかけてしまったが、ここらのはなしはミステリマガジンにて連載されてある荒岸来穂「陰謀論的探偵小説論」に詳しい。海外にいるという都合上参照できなかったが、おそらく『ダ・ヴィンチ・コード』(あるいはラングドンシリーズ)について触れていたはずである。わたしは陰謀論について体系だった知識を持っていない。つまりその点については素人の戯言だとして斟酌して読んでほしい。

おまけ:聖地写真集

ルーブル美術館にて。モナリザは大人気だった。
サン・シュルピス教会とローズ・ライン(子午線)

 

エッフェル塔




*1:実際現場はかなり迷惑を被ったとのことだ。影響力のある小説もそれはそれで大変なわけだ。