載籍浩瀚

積んで詰む

村田沙耶香『信仰』

「"現実"は決して強固な実体じゃない。極論すればそれは、社会というシステムが人々に見せている一つの巨大な幻想にすぎない」 ——綾辻行人時計館の殺人

 

凡そ事信じ能はざる者は不幸なるかな ——内村鑑三「懐疑の精神」

 

 村田沙耶香の作品には現実と虚構を反転させる力があると思う。彼女の作品は、読者が持つ現実への無邪気な信仰に対して罅を入れてくるからだ。その割れ目から、じわじわと虚構が侵食してくる。一方で紙の上ではあくまでも現実的な筆致が続く。そしていつの間にか、小説の中にあったはずの虚構と、我々がいたはずの現実が逆転している。彼女の作品こそが本物で、我々の世界は偽物ではないか。わたしたちはなにを信じて、ここが現実だと認識していた? 水素水を飲むこととルイヴィトンを買うことの差異はなんだ? 現実に対する信仰とは、すなわち社会に対する信仰だ。では社会に対しての信仰心が薄い人はどうなる?

 

 

 

 

感想

  • 短編が6つとエッセイが2つ収録されている。どの作品も標準以上の出来だと思う。個人的ベストは「最後の展覧会」。
  • 本書を読んで再認識したのは、作者にそういう狙いがあるのかは分からないが(多分ないだろう)、非常にSF的な構造を取る作家だということである。大森望が年間SF傑作選に取っても不思議ではないほどに。特に「最後の展覧会」はロボットに宇宙文明と、かなりプロパーなガジェットを使っている。
  • これは一般的な話だと思うが、「まともさ」というのは相対的に評価される。共同体の空気を読めるから「まとも」だし、社会のルールから逸脱してしまうと「まとも」ではない。つまり我々の社会での狂人が共同体を作った場合、我々の社会での常人はそこでは狂人になる。反転するわけだ。村田沙耶香はそれを作中で意図的に行っている。
  • 読んでいくうちに、小説内の論理に支配されていることに気づく。それは我々の社会では決して「まとも」と言える論理ではないが、彼女の作品では常識として扱われている。「生存」での生存率評価と社会構造、「書かなかった小説」におけるクローンの権利についてなど、現実における小さなバグを彼女は見つけ出し、暗喩として物語を描出する。
  • そういう意味では、「信仰」は少し変わっているかもしれない。「信仰」の中には現実と同じ「まとも」な軸があるように思う。物語で描かれるのは、「まとも」から外れた対極的な二人の話だ。
  • エッセイについては語るべきことは少ない。彼女の小説についての答え合わせとして読むのも雑だろうと思う。ただ読めて良かったとも、同時に思う。
  • 以下は個別の詳細な感想である。

 

「信仰」

  • 極端な原価主義者である永岡ミキは、地元の同級生である石毛にカルトを立ち上げようと誘われる。過去にマルチ商法の勧誘に失敗してしまった経験を持つ斉川は、石毛と志を同じくし、今回のカルトでのリベンジに燃えていた。現実から夢を切り捨てたミキは自身と真反対な性格で「信仰心」の強い斉川への興味心に突き動かされてゆく。
  • 端的にいうと——こういう言い方は個人的に好みではないが——村田沙耶香という作家の「作家性」が溢れ出た短編である。彼女の作品に通底している「社会から溢れてしまった個人」というモチーフが炸裂している一作だ。
  • 本作で社会から溢れてしまったのは、視点人物であるミキである。彼女は不可視で計測不可能な「付加価値」というものに対してのペイを本能レベルで拒否してしまう癖があった。ミキにはブランドのバッグも、自分磨きのエステも、原価以上の価値を見出すことができない。彼女の中で完結しているのならばまだ救いもあったのだが、彼女は自身の悪癖を善意として他人にも押し付けてしまう。当然他人とは確執が生まれ、いつしか爪弾きにされていた。
  • そんなミキの前に現れたのが、マルチ商法にも心の底から引っかかってしまうような斉川だった。斉川はミキとは正反対に、他人を、社会を手放しで信仰している。彼女にとって、マルチ商法は他人を騙す行為ではなかったのだ。彼女にとってそれは啓蒙行為だった。つまり石毛とともに始めるカルトも彼女にとっては他人を救う治療行為に他ならない。
  • 対照的な二人を対比させながら、物語は進んでいく。ミキの中で「信仰すること」に対する信仰心が芽生えたから、歯車が噛み合ってしまったのだ。しかしそれは社会の一員として擬態する行為に他ならない。すなわちその歯車は、意図した動作を保証しない。
  • 最後のシーンについて。ミキは変化したのだろう。今までの彼女ではなくなった。彼女の原価主義思想に対して彼女自身が信仰を始めたと言えるのかもしれない。だから彼女は地動説の地面を踏み締めて叫ぶわけだ。
  • A24に映画化してほしいという感想を見かけた。たしかにこの作品のクライマックスを読んだときにはミッドサマーを想起した。その向きにもおすすめできるかもしれない。

 

「書かなかった小説」

  • 夢のような設定の、しかしこれもまた「現実」に根ざしている作品である。自分がもし複数人いれば、というのをあくまで冷静にやっている。自分以外の自分にだって同じように感情があるのだから、誰かひとりサボることなどできないし、やらない。『ドラえもん』や『パーマン』にもコピーロボットといって、自分がやりたくないことを代替させるロボットが出てくるが、現実の世界でクローンを行使しようとしてもそううまくはいかないだろう。
  • ただしそれだけには留まらない。語り手の夏子とそのクローンたちは、共同生活を送るうえでそれぞれ互いに繊細な感情を抱くことになる。夏子Dと夏子Eは性愛感情を持ってしまう。その上で夏子A——夏子は夏子Dに対してのただならぬ想いを胸に秘めることとなった。
  • 一方で、共同体にはある悲劇が訪れる。それによって、夏子Aは夏子Cとして過ごすようになり、夏子Dは夏子Aとして生活を送り始める。クローンといえど存在したはずの差異が、じわじわと消えていく。自己がゆっくりと溶けていくわけだ。
  • その上で、感情は残る。自己愛だったのか他者への愛だったのか分からない夏子たちのそれは、薄まっていく自己、あるいは境界とどうバランスを取っていくのだろうか。
  • この短編は終わりかけの「起」とびとびの「承」と「転」で成り立っている。作者インタビューによると、この小説は「書かれなかった小説」を再び文字に起こしたものだということだ。しかし、またしても完全な形では書かれなかった。最後の断章では疑問形が繰り返された後に、わずかなアイデンティティを断定して幕を閉じる。これを「結」とすべきかは、自分には判断がつかない。

 

「最後の展覧会」

  • 最後の最後にして、とてもシンプルな作品だったと思う。「芸術」に対しての信仰の物語である。同時に生に対しての信仰も描いている。