載籍浩瀚

積んで詰む

「平行な私たちと、斜めなPたん」/改めて【NOT≠EQUAL】を読む

 シャニマスサブスクめちゃくちゃ解禁&もうそろそろの5thおめでとうございます。

 ビックウェーブに乗ってわくわくシャニマス胡乱話をします。評論でもレビューでも分析でも考察でも当然批評でもなく、牽強付会な都市伝説みたいな話です。都市伝説というか、もはや一種の願い、みたいなものかもしれません。

 数いる283プロのアイドルのひとりとして、今のところ三峰結華に与えられた物語は、「普通のアイドル」としてのプロデューサーとの距離感とまとめてしまうことができると思います。アイドルとして素質のある彼女、しかし、他のアイドルと比べて天性的な特別を持っているわけではなく、至極一般的な生活をしている彼女。それは歪にも、普通の少女としての日々にアイドルとしての顔が垣間見えるという逆転現象が発生してしまうほど、アイドルとして定まっていない三峰結華という少女。「アイドル」と「一般人」の境で、彼女自身がくらくらと揺らぐからこそ、動点Pである彼への気持ちの預け方も揺らいでいく、初期三峰コミュを総括するとそういう話になると思います。

 そして【NOT≠EQUAL】がそれらの物語の、転換点としての一幕であることは、もはや論を俟たないはずです。【NOT≠EQUAL】という題は「普通の私」は「アイドルの私」と違うことを示しており、それは飲み込んだ悲恋の物語であるという解釈が一般に為されています。

 もちろんこの解釈自体どこにも怪しげなところはなく、読みとして正しく消化されているように思います。ただしここでは、もう少し踏み込んで、「≠」のかたちについて考えていきましょう。

 よく知られているように、等号は2本の平行線によって記述されています。一見無関係な左辺と右辺に橋を渡す記号、それこそが等号です。一方で、等号自体のふたつの線はいつまで経っても交わることがない。しかし、そこに一本の斜線/を渡すことによって、ふたつの平行線は、つながります。不等号は、その意味とは裏腹に、本来無関係だったふたつの線に対して、一つの斜線がつながりを与える記号と捉えることができます。

 ではこの物語にとって、ふたつの平行線とはなんでしょうか。それは、それこそが「普通の私」と「アイドルの私」ではないでしょうか。そして、その、本来交わるはずのなかったふたつに橋を渡した斜線、それこそがプロデューサーでしょう。プロデューサーが「アイドルの三峰結華」を見出したことによって、彼女は「普通の私」以外の直線に気づく。そのことは、象徴的に斜線の挿入されている初期pSSRカード【お試し/みつゴコロ】に描かれています。

 このことを踏まえて。【NOT≠EQUAL】とはいったいどのようなコミュだったのでしょうか。「普通の私」への決別? 想いを飲み込んだ「悲恋」? プロデューサーと目線を一にするという覚悟? 

 自分は「羽ばたき」のコミュとして書かれているのではないかというふうに読みました。そのテーマ自体はなにも新しくはないのですが、大事なのは≠性の問題です。というのも≠という記号を左から右へ、時系をなぞるように見ると、下線にはじまり斜線を通って、上線へと辿り着く、sを潰したような一筆書きが浮かび上がります。垂直でなく斜めに橋がかかっていることで、上線から始めると、三峰がタイムトラベラーになってしまうのもちょっとしたミソです。このコミュでは、最終的に「アイドル三峰結華」を覚悟する三峰結華の様子が描かれている、ということはすでに先述した通りです。よって一筆書きは、始点「普通の私」から終点「アイドルの私」へと伸びていきます。

 要するに。下線「普通の私」をスタートし、プロデューサーによって架けられた橋を滑走路に、上線「アイドルの私」へと翔び立っていく。つまり【NOT≠EQUAL】によって三峰は、「『普通の少女』としての日々に垣間見えるアイドルらしさ」が魅力的な女の子から、「『アイドル』としての日々に垣間見える少女らしさ」が魅力的な女の子へと変身する、そういう話にも読めるのではないか、と思うのです。それは決して「普通の私」との決別や恋心の落蕾だけではなく、確かにプロデューサーとの目線を一にする覚悟を持つけれども、しかし一番は、プロデューサーという滑走路を信じて、三峰結華というアイドルへと羽ばたいていく、そういう覚悟を表しているコミュとして読みました。


というかそういうシナリオとして読ませてくれよ? 最近は楽しそうだからいいけど。