載籍浩瀚

積んで詰む

樋口有介『夏の口紅』

 青春ミステリが好きだ。とりわけ、家族や血の関係といった、力のない青春時代には切っても切ることのできない宿命的な関係に翻弄されながら、ひとつ、あるいはふたつほど、精神的成長を遂げるような青春ミステリが好きだ。そして本作『夏の口紅』は、まさしくそういった小説であった。

 あらすじは、たとえば以下のように紹介されている。

十五年前に家を出たきり、会うこともなかった親父が死んだ。大学三年のぼくは、形見を受け取りに行った本郷の古い家で、消息不明の姉の存在を知らされ、季里子という美しい従妹と出会う。一人の女の子を好きになるのに遅すぎる人生なんてあるものか…夏休みの十日間を描いた、甘くせつない青春小説。

 物語は若者たちの、夏の暑さから逃避するように籠った、湿度の高く脱力感の残る部屋で幕を開ける。香織という少し年上のお姉さんと、「ぼく」こと礼司との、名前のないゆえに責任を回避した絶妙な関係が描出される。そんな礼司が家へと帰宅したとき、ケーキをつくって待っていた母から「父の死」を告げられる。その後礼司は、父の面影が残る他人の家へと赴く。そこにいたのは義理の従姉妹で、「病気」を持つおかしな少女、季里子だった。そこで礼司は彼と、知らない姉の分の遺品を受け取る。

 顔も知らない「父」の死をきっかけに、存在すら知らなかった「姉」の影を追うことになる。自然とそこには、家族を放棄した父の姿が浮かび上がってくる。血の関係に惑わされる主人公の前にさらには「義理の従姉妹」が現れる。この彼女に翻弄されながら、「ぼく」は「姉」を探っていく。

 主人公にとって不可避な、宿命づけられたものに翻弄されながらルーツを探っていくという序盤のプロットには、エスケンスの『過ちの雨が止む』を想起する。どちらも知らないところでの、知ることのない父の野放図な振る舞いが、息子である主人公へと返ってくる。それが探索行の邪魔になると同時に手がかりになり、物語は進んでいく。そんなこの二つの作品の違いは主人公の立場にある。『過ち』の主人公が、恋人や弟への責任を負う立場であるのに対して、本作『夏の口紅』の礼司は誰にも責任を負わなくていいゆえの軽さを持ち合わせている。

 その軽さは、礼司の会話にも表れている。

「遅くなるとお母様に叱られる?」「女の子と待ち合わせがあったことを、思い出しました」「今まで忘れていて、突然思い出したの」「それぐらいのことは、いつでも忘れて、いつでも思い出せます」

 あるいはもっと、意味のない言葉の交換をしている場面もある。

「おばさんは?」「いる」「いるのか」「いる」「そう、それは、よかった」

 もちろんこれらは、本作のハードボイルド的なプロットを象徴するための、ニヒルなレトリックに過ぎないのかもしれない。しかし最後まで読んだ読者には、礼司の照れくささのなかに想いを詰め込んだ、あの肩肘張った一文が印象に残っているはずだ。それを思うと、やはりあの場面までの礼司の言葉には、レトリックによる軽妙さではなく、無責任さゆえの気軽さが表れているようにも思える。

 そうすると、本作は礼司が他者を負うことによって、他者により一層深く踏み込むことを覚える物語として読める。彼を翻弄した宿命から逃れるのではなく、それを受け入れて、むしろ宿命を使うことによって彼らは立ち向かっていく。その思い切りの良さに、籠った熱がさわやかな風によって拡がっていくような、そんな爽快感を覚えた。