載籍浩瀚

積んで詰む

ジャンル破壊について/森バジル『ノウイットオール』

 第30回松本清張新人賞受賞作。阿部智里、辻村深月米澤穂信森絵都森見登美彦の五人への「挑戦状」だ! と高らかに大きく記載された帯が印象的だ。「挑戦状」の意味は明白。この小説が五つのジャンルからなっており、意識してかせざるか、その五つというのがなんとなく、選考委員のお膝元を攻めたかたちになっているからだ。目次順にいくと、推理小説-米澤、青春小説-辻村、科学小説-森見、幻想小説-阿部、恋愛小説-森、という感じに。もちろんこれらの区分けに正当性はない。たとえば推理小説について、米澤のほかに辻村、森見、阿部の三名の代表作ではミステリの形式が使われていたりするし、青春小説なんて五人全員が書いている。しかしながら、大枠はこうであると想像ができて、だからこそわたしは選考委員に問いたい。自分の「領分」にきた短編は、あなたを満足させましたか? と。

 かなり意地悪な書きかたをした。ただこの小説を読みおわったときの率直な意見はこうだ。「とても器用貧乏な小説だった」。頭ひとつ抜けていたのは、青春小説の「イチウケ!」だろう。これはかなり面白かった。この作家は青春小説の書き手として期待できる、とも思った。しかしこれも、青春小説として出版された『成瀬は天下を取りにいく』にかぶってしまう。そして、青春小説としてみると、その物量から力負けをしているように思える。つくづくもったいない。

 見どころはたくさんある。そもそもジャンルへのこだわりがなければ、全然楽しめると思う。なぜならば五つのジャンルの、アクセントは十分に楽しめるからだ。推理小説パートには推理があり、科学小説パートにはひみつ道具みたいなものが出てくる。でもそうではないのだ。それぞれ、重要なピースが抜け落ちている。たとえば推理小説パートにおける推理のあり方がそうだ。本格ミステリでなければならないと言っているわけではない。しかし後出しジャンケンで構成される意外性は、どうにも腑に落ちないし、脱力感のあるものだった。幻想小説の章もそうだ。幻想性があまりなく、「ファンタジー」として書いたのかもしれないが、そうすると科学小説の章との区別が曖昧になっている。ジャンル分け、の明確さが足りず、せっかくの構成に亀裂を入れていた。ただしこれは、わたしがジャンルに規定された読者だからだ。だからこそ、もっとジャンルを意識してほしかった、という感想になる。

 また、五つのジャンルが連作になっているという、本作の目玉の構成そのものが、あまり活かされていないように感じた。伊坂的世界観を一冊で作る試みだったのかもしれないが、あの世界観はそれぞれの物語が大きいからこそ成り立っているように思う。今回の短編集では、そこに達することはできていない。

 多くの人がなにをもってジャンルを認識しているのか、というのはジャンルを考えるうえで非常に重要なことだ。そこからジャンルという空間を張る基底はなにか、その根源を考えて演繹的にジャンル小説を書いていく。ジャンルというものを意識するのならば、これがプロの仕事ではないか。

 一方で、読者は演繹的にジャンルを捉えない。多くの読者は、これが「ジャンル」ですと提示されたものから、構成論的にジャンルを理解する。その「ジャンル」です、と提示するのは、いつもだったら出版社だ。ほかに力を持っているのは書評家や宣伝に携わる書店員であり、新人賞だったら選考委員だ。特に松本清張新人賞は、ジャンル不問の新人賞である。ジャンルを意識しない、面白いエンタメを読みたいという読者が手に取ることが、ほかのジャンル新人賞に比べて多いと予想される。かれらにとって、「ジャンル」はそういうものだと理解される。

 これはこの小説に限った話ではない。宣伝の一環として、形式的に「ジャンル」の名前を借りてくる、そういう例が見飽きるほど散見される。その行為は、ジャンル小説を脅かしていないのだろうか? 脅かして良い、既得権益に満ちた「ジャンル」概念の破壊は、「ジャンル」の認識が革新される革命的行為として礼賛するひともいるかもしれない。しかし、本来革命はあくまで内部から起こるからこそ成立するのであり、輪郭のぼやけたジャンルを寄せ集めたことで読者からの「ジャンル」認識までもぼやけていくんだとすれば、それは「ジャンル」どころかジャンルの破壊にほかならない。