載籍浩瀚

積んで詰む

マーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』を読んだ。

あらすじ

1930年、ロンドン。名探偵レイチェル・サヴァナクには、黒い噂がつきまとっていた。彼女は、自分が突きとめた殺人者を死に追いやっている――。レイチェルの秘密を暴こうとする新聞記者ジェイコブは、密室での奇妙な自殺や、ショー上演中の焼死といった不可解な事件に巻き込まれる。一連の事件の真犯人はレイチェルなのか?真実は全て“処刑台広場”に。英国推理小説界の巨匠による極上の謎解きミステリ。(amazon

 

感想

 勘違いされたくないので、率直な結論だけ先に述べておく。面白かった。読み終えたときには、満足感を覚えるだろう。人に勧めるか? と訊かれたら、海外ミステリが好きならば読むと大変楽しめるだろう、と伝える。

 でもさ。

 面白かったけど、みんな手放しで褒めすぎていて、そのお祭りを見るとめっちゃ疎外感覚えちゃうよ!

 識者たちが「文句のつけようのない大傑作、これは歴史に残るぞ」くらいの賑わいを見せているからこそ、読み終わったときの感想は、さあて困ったなあというものでした。普通に面白いんだけれど、とはいえ、上手く肌に馴染まず絶賛はできないといった中途半端さが居た堪れません。一年通して五指には入る海外ミステリだとは思うんですけどね。

 まず好印象だったところから。本作の面白さは、雰囲気とツイスト、そしてキャラクターに詰まっているといって良いでしょう。いろいろなところでディーヴァーが引かれていたり、ジェットコースターサスペンスだと言われていたりするだけあって、どんでん返しのわくわくは本物。さらにはキャラクター(特に語り手であるジェイコブ、そしてメインキャラクターであるレイチェル)の魅力。かなりキャラ脚色を意識されているのか、登場人物の数が多いのにもかかわらず、ひとりひとりが立っていて読みやすい。ジェイコブが新聞記者なのも相まって、偏愛作である『トレント最後の事件』を思い出しました。なんなら本当に『トレント最後の事件』じゃん! と途中サラと良い感じになりかけていたところまでは思ったりもしていたのですが......まあこれ以上は読んでください。

 一方でどうにも乗れなかったところをいうと、実はこちらもツイストの部分にあります。まず前提として、本作はいわゆる謎解き小説ではありません。謎解き小説の風格を醸し出しており、要素も見られますが、オーソドックスなパズラーではない。ではミステリの軸となる謎がどこにあるのかというと、これはあらすじや評判にもある通り、レイチェルという女探偵の在り方が謎なのです。

 そして実は(まあ想像つくと思いますが)、「人の在り方が謎」というのはそれ自体が謎になります。言い方が漠然としていますが、つまり「謎自体が謎」というタイプの小説になっています。レイチェルっていう怪しいやつがいるらしい。怪しいんだけど、どう怪しいのかもよく分からん。とりあえず彼女の周りで事件起こってるっぽいし、それを調べつつ彼女を調べよう、といった感じ(とても雑ですが)。そして本作に限らず謎自体が謎に包まれている作品は、謎と捜査の距離が遠くなります。なにか捜査をしているのですが、具体的にどう捜査が進展しているのかが朧気になってしまう。そしてこのようなタイプの作品で繰り出されるツイスト(による驚き)は、事実開陳の驚きになっていきます。トリックの種類自体は違うのですが、『心ひき裂かれて』とかの読み味に近いわけです。

 事実開陳の驚きと言われてもイメージがつかないと思うので、個人的に持っている対照的な概念をあげると、それは真相開示の驚きになります。前者は不意を突かれるのですが、後者は世界が変わるイメージです。前者は物語のヒキとして意外な事実が次々と明るみになっていく。作者による情報の隠し方のさじ加減ひとつでどうとでもなることから、納得よりも驚きが優先される傾向が強い。後者は捜査から組みあがった確度の高そうな仮説が裏切られ、別の見え方が立ち上がる。ここには意外なところに納得できる驚きがある。個人的な話ですが、わたしは前者にはまることがあまりない。ミックスされていればまだしも、前者オンリーだと、驚きとともに、どこか「そっかあ」という読み方をしてしまうからです。本作は前者メインでありつつも「そっかあ」という冷めよりも新事実によるびっくりが勝った*1のですが、それでも「ふむふむ」「なるほどねえ」くらいの落ち着きで読み終えてしまったわけです。

 ここで冒頭に戻ります。なんやかんやで冷静に読み終えてしまった。だからこそ目の前で繰り広げられているお祭りさわぎに混ざることもできず、俺には関係ねえからとふてくされている男子中学生になるしかないわけです。

 まあでもそういうひとも、たぶんいると思います。これはここにもふてくされているひとがいるぞ! と声高に叫ぶための記事です。お祭り会場のわきで、普通に焼きそば美味しいよなとぼそぼそ言う会を開きたかったのです。

 なんかこれ既視感があるなと思ってたんですが、ホロヴィッツの『カササギ殺人事件』が出てきたときと一緒でした。ホロヴィッツはちゃんと好きだし全部読んでいるんですが、『カササギ殺人事件』を読んだ当初は、なんでこんなにみんな騒いでるんやろみたいな気持ちになったことを思い出します。ということは、『処刑台広場の女』も『カササギ』くらいのフィーバーを迎える可能性大ということです。

 まとめると読んで損はない作品だということです。良作でした。

 

www.hayakawabooks.com

*1:これは紛うことなく本作の質の高さによるものでしょう。

倒叙ミステリを掌握する/石持浅海『君の望む死に方』

『君の望む死に方』は、石持浅海による倒叙ミステリのシリーズ、碓氷優佳シリーズの二作目である。

余命六カ月――ガン告知を受けたソル電機社長の日向は、社員の梶間に自分を殺させる最期を選んだ。日向には、創業仲間だった梶間の父親を殺した過去があったのだ。梶間を殺人犯にさせない形で殺人を実行させるために、幹部候補を対象にした研修を準備する日向。彼の思惑通りに進むかに見えた時、ゲストに招いた女性・碓氷優佳の恐るべき推理が、計画を狂わせ始めた…。(hontoあらすじより引用)

 

 倒叙モノながら、<犯人>視点中心に描かれるのではなく、殺されようと画策している<被害者>の視点、<被害者>を殺そうとしている<犯人>の視点が交互に挿入されて物語が進んでいくのが面白い。さらにはシリーズ探偵である碓氷優佳の視点は、一切描かれない。

 これは、とても歪である。なぜならば倒叙ミステリで多く採用される語られ方は、「犯人」による犯行ならびにその画策が中心に描かれ、そこに探偵役による捜査と追及が挟まるパターンだからだ。しかし、本作ではそうではない。<被害者>ならびに<犯人>のふたつの視点のみで構成されている。

 さて、倒叙とは「転倒させた叙述」のことを指す。ここでいう転倒というのは、主語と目的語を入れ替える操作をいう。つまりミステリにおける転倒とは、ご存じの通りオーソドックスな「探偵が犯人を追い詰める」叙述を「犯人が探偵に追い詰められる」叙述に変換することである。と思っていた。本作を読む前までは。

 本作の構図を再確認してみよう。本作には三人のキーパーソンが存在する。ひとりはシリーズ探偵の碓氷。ひとりは殺意を抱き、犯行を実行するものとしての梶間。そしてさいごに、梶間におあつらえ向きな舞台を整え、被害者になろうとしている日向である。先述したとおり、本作では被害者にならんとしている日向の視点に始まり、合間に犯行を画策する梶間の視点が挿入される。探偵役の碓氷は常に第三者として語られるわけだ。

 では本作ではなにを転倒させたのか。もちろん単純に「犯行計画を練る者」と「探偵」のせめぎ合いであると見ることもできる。しかしながら、無謀にも一歩踏み込んで、より核となる部分を捉えてみたい。

 本作で石持は倒叙に出てくる「探偵」や「犯人」の存在を、その記号を、ひとつ抽象度をあげて捉え直したのではないかと見てみる。つまり、倒叙における「犯人」とは犯行者のことを指すのではなく「事件の盤面を操ろうとしているもの」であり、「探偵」とは事件に迫るものではなく「『犯人』に操られそうになっているもの」のことを指すのではないか、ということだ。

 この場合「犯人」も「探偵」も、同じ盤面上で操り操られの攻防を行うことになる。一般的な倒叙ミステリにおいて、犯行者が捜査官から逃げ切る場合、「犯人」は「探偵」を含めた事件の盤面を操りきった状況をあらわしている。一方で犯行者がお縄にかかった場合、それは「探偵」が「犯人」の思惑を逸し、事件をたたむことができた状況を指す。ここに、倒叙ミステリにおける頭脳戦の構図があらわれる。だからこそ倒叙ミステリは、サスペンスに富んでおりコンゲームとしての側面がたびたび前面に出てくる。

 このように倒叙ミステリにおいて一般的に書かれうる二つの視点を、事件の「操り手」-「操られ手」として見直すと、本作の見通しが一気に晴れる。三人のキーパーソンのうち、事件を操ろうとしていたのはもちろん日向だ。被害者にならんとし、梶間の殺意を萌芽させ状況を整えた。その視点で見ると、操られている=「探偵」は梶間になる。知らず知らずのうちに、日向の手によって日向に迫ろうとしている様子が本作では随所で描かれる。また梶間は研修の真の目的まで迫ろうとしており、実は日向の思惑にも辿り着けうる存在だった、という点で「探偵」役に相応しい役者だったのだ。では、一見一般的な「探偵」役に写っていた碓氷は何者だったのか。「探偵」の役は梶間であるから、碓氷は「探偵」の役ではない。それどころか、彼女にとって、「探偵」は役不足なのだ。彼女が起こした行動は、事件における「操り手」すら操るようなものだった。もっといえば梶間すらも日向を超えて操っていた彼女は、事件という盤面そのものを掌握しきっていたわけだ。つまり彼女は本作において、事件の盤面を俯瞰する、ひとつ上の存在として佇んでいる。だからこそ、最終盤で彼女は、探偵役にあるまじき選択を日向に託す。なぜならば、碓氷優佳は盤上で奔走する探偵ではないからだ。彼女は本作において、絶対の存在だった。シリーズ探偵を絶対のものとして配置することにより、石持浅海は見事に神の如き探偵を演出しきったのである。

 石持浅海は、本作で倒叙という技巧を掌握したのだ。

 

 

一年で五十回のミステリ読書会をやった話

 去年の四月下旬に毎週読書会をやろうといって、一年とちょっとが経った*1。読み逃していた(あるいはもう覚えていない)古典ミステリ*2を網羅的に読むのが主目的で、ほかにはいかにしてミステリができてきたのかという文脈を追おうとしたのがこの読書会だ。レジュメとかはなく、読み、集まり、語る。シンプルにすることで継続性を高め、時折休みを取りながらも(大体は自分のキャパオーバーが原因だが)なんとか五十冊という節目を迎えた。せっかくなので五十冊のリストを備忘録的に残しておく。

 

ブックリスト
  1. ジョン・ディクスン・カー『ビロードの悪魔』

  2. ヒラリー・ウォー『生まれながらの犠牲者』

  3. E・S・ガードナー『嘲笑うゴリラ』

  4. ロス・マクドナルド『ギャルトン事件』

  5. エドマンド・クリスピン『消えた玩具屋』

  6. エドワード・D・ホック『サム・ホーソーンの事件簿I』

  7. ニコラス・ブレイク野獣死すべし

  8. パーシヴァル・ワイルド『検死審問ーインクエストー』

  9. リチャード・ニーリィ『心ひき裂かれて』

  10. エリス・ピーターズ『死体が多すぎる』

  11. D・M・ディヴァイン『五番目のコード』

  12. マイケル・イネス『ある詩人への挽歌』

  13. キャサリン・エアード『そして死の鐘が鳴る』

  14. エラリー・クイーン『盤面の敵』

  15. アガサ・クリスティ『死の猟犬』

  16. マーガレット・ミラー『狙った獣』

  17. ピエール・シニアック『ウサギ料理は殺しの味』

  18. ウィリアム・L・デアンドリア『ホッグ連続殺人』

  19. マイクル・Z・リューイン『沈黙のセールスマン』

  20. R・D・ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』

  21. カルロス・ルイス・サフォン『風の影』

  22. ヘレン・マクロイ『家蠅とカナリア

  23. ジム・トンプスン『ポップ1280』

  24. ジャック・カーリイ『百番目の男』

  25. ジョン・スラデック『見えないグリーン』

  26. レイモンド・チャンドラー『大いなる眠り』

  27. 陳舜臣『枯草の根』

  28. 山田風太郎太陽黒点

  29. 鮎川哲也『王を探せ!』

  30. 藤原審爾『新宿警察』

  31. 結城昌治『ゴメスの名はゴメス』

  32. 松本清張ゼロの焦点

  33. 都築道夫『ちみどろ砂絵・くらやみ砂絵―なめくじ長屋捕物さわぎ』

  34. 多岐川恭『濡れた心』

  35. 山田正紀『火神を盗め』

  36. ギャビン・ライアル『深夜プラス1』

  37. 笠井潔『バイバイ、エンジェル』

  38. レイモンド・チャンドラー『さよなら、愛しい人』

  39. フレッド・ヴァルガス『青チョークの男』

  40. 松本清張『Dの複合』

  41. 山田正紀『ミステリ・オペラ』

  42. 小林信彦紳士同盟

  43. 河野典生『殺意という名の家畜』

  44. レイモンド・チャンドラー『高い窓』

  45. 笠井潔『哲学者の密室』

  46. ジル・マゴーン『騙し絵の檻』

  47. ジョルジュ・シムノン『メグレと老婦人』

  48. 高木彬光『成吉思汗の秘密』

  49. 西村京太郎『七人の証人』

  50. ジョン・ディクスン・カー『帽子収集狂事件』

 

感想

 見て分かる通り、弩級の名作リストなので、基本的にハズレはない。なかにはこれは......という合意が得られた作品もあったにはあったが、とはいえ打率はかなり高く、楽しみながら読めた。

 途中からはチャンドラー村上春樹訳を全部読もうという試みを始め、それも順調に消化していっている。通して読んでいくことで、チャンドラーは意識してミステリマニアな作品を書いているのではないかという発見もあった。なんとなく硬く正しい作品のイメージが付き纏っていたマーロウシリーズだが、新本格ネイティブの世代にもおすすめできる。実は古典と本格を意識している作家なのではないか、という気づきでいうと松本清張も当てはまる。彼ら二人の作品は、たしかに本格ミステリではない。しかし本格ミステリのエッセンスがふんだんに用いられている。乱雑に人気作を取っていくと、意外なところから癖を突かれるのが面白い。これがこの読書会の一番の効用だった。

 せっかくなので、最後に個人的おすすめ十選を記す。開催順に。

  1. ロス・マクドナルド『ギャルトン事件』
  2. ニコラス・ブレイク野獣死すべし
  3. エリス・ピーターズ『死体が多すぎる』
  4. R・D・ウィングフィールド『クリスマスのフロスト』
  5. ジム・トンプスン『ポップ1280』
  6. ジョン・スラデック『見えないグリーン』
  7. 山田風太郎太陽黒点
  8. 松本清張ゼロの焦点
  9. 小林信彦紳士同盟
  10. 笠井潔『哲学者の密室』

 

*1:公開するのが遅くなったが、五十回の読書会をやるのにかかったのは、一年と一か月程度だった

*2:結局は古典まで遡らない必読作品もリスト入りした

ジャンル破壊について/森バジル『ノウイットオール』

 第30回松本清張新人賞受賞作。阿部智里、辻村深月米澤穂信森絵都森見登美彦の五人への「挑戦状」だ! と高らかに大きく記載された帯が印象的だ。「挑戦状」の意味は明白。この小説が五つのジャンルからなっており、意識してかせざるか、その五つというのがなんとなく、選考委員のお膝元を攻めたかたちになっているからだ。目次順にいくと、推理小説-米澤、青春小説-辻村、科学小説-森見、幻想小説-阿部、恋愛小説-森、という感じに。もちろんこれらの区分けに正当性はない。たとえば推理小説について、米澤のほかに辻村、森見、阿部の三名の代表作ではミステリの形式が使われていたりするし、青春小説なんて五人全員が書いている。しかしながら、大枠はこうであると想像ができて、だからこそわたしは選考委員に問いたい。自分の「領分」にきた短編は、あなたを満足させましたか? と。

 かなり意地悪な書きかたをした。ただこの小説を読みおわったときの率直な意見はこうだ。「とても器用貧乏な小説だった」。頭ひとつ抜けていたのは、青春小説の「イチウケ!」だろう。これはかなり面白かった。この作家は青春小説の書き手として期待できる、とも思った。しかしこれも、青春小説として出版された『成瀬は天下を取りにいく』にかぶってしまう。そして、青春小説としてみると、その物量から力負けをしているように思える。つくづくもったいない。

 見どころはたくさんある。そもそもジャンルへのこだわりがなければ、全然楽しめると思う。なぜならば五つのジャンルの、アクセントは十分に楽しめるからだ。推理小説パートには推理があり、科学小説パートにはひみつ道具みたいなものが出てくる。でもそうではないのだ。それぞれ、重要なピースが抜け落ちている。たとえば推理小説パートにおける推理のあり方がそうだ。本格ミステリでなければならないと言っているわけではない。しかし後出しジャンケンで構成される意外性は、どうにも腑に落ちないし、脱力感のあるものだった。幻想小説の章もそうだ。幻想性があまりなく、「ファンタジー」として書いたのかもしれないが、そうすると科学小説の章との区別が曖昧になっている。ジャンル分け、の明確さが足りず、せっかくの構成に亀裂を入れていた。ただしこれは、わたしがジャンルに規定された読者だからだ。だからこそ、もっとジャンルを意識してほしかった、という感想になる。

 また、五つのジャンルが連作になっているという、本作の目玉の構成そのものが、あまり活かされていないように感じた。伊坂的世界観を一冊で作る試みだったのかもしれないが、あの世界観はそれぞれの物語が大きいからこそ成り立っているように思う。今回の短編集では、そこに達することはできていない。

 多くの人がなにをもってジャンルを認識しているのか、というのはジャンルを考えるうえで非常に重要なことだ。そこからジャンルという空間を張る基底はなにか、その根源を考えて演繹的にジャンル小説を書いていく。ジャンルというものを意識するのならば、これがプロの仕事ではないか。

 一方で、読者は演繹的にジャンルを捉えない。多くの読者は、これが「ジャンル」ですと提示されたものから、構成論的にジャンルを理解する。その「ジャンル」です、と提示するのは、いつもだったら出版社だ。ほかに力を持っているのは書評家や宣伝に携わる書店員であり、新人賞だったら選考委員だ。特に松本清張新人賞は、ジャンル不問の新人賞である。ジャンルを意識しない、面白いエンタメを読みたいという読者が手に取ることが、ほかのジャンル新人賞に比べて多いと予想される。かれらにとって、「ジャンル」はそういうものだと理解される。

 これはこの小説に限った話ではない。宣伝の一環として、形式的に「ジャンル」の名前を借りてくる、そういう例が見飽きるほど散見される。その行為は、ジャンル小説を脅かしていないのだろうか? 脅かして良い、既得権益に満ちた「ジャンル」概念の破壊は、「ジャンル」の認識が革新される革命的行為として礼賛するひともいるかもしれない。しかし、本来革命はあくまで内部から起こるからこそ成立するのであり、輪郭のぼやけたジャンルを寄せ集めたことで読者からの「ジャンル」認識までもぼやけていくんだとすれば、それは「ジャンル」どころかジャンルの破壊にほかならない。

2023年上半期読書録

 時間が取れなさそうなので(これをいうのが悲しい)取り急ぎ備忘録的にリストのみ作る。あまり読めていないので(これを以下略)長編短編各十作ずつ。

 

長編

 

中短編
  • 泡坂妻夫「ダイヤル7」
  • 乗代雄介「掠れうる星たちの実験」
  • 林京子「空罐」
  • 池澤夏樹「ヤー・チャイカ
  • 山田詠美「唇から蝶」
  • 町屋良平「青が破れる」
  • 保坂和志「生きる歓び」
  • 青山文平「初めての開板」
  • 宮島未奈「ありがとう西武大津店」
  • 青木知己「ミッシング・リング」

 

 大人にならず、英雄を求めてずっと遊んで暮らしていたい。気怠げな夏を迎えるが、激情の渦が変わりゆく環境へ反骨し、どうか人生があるべき場所へと流れ着くように祈るばかりである。

 どうなんだろうね、ほんとに。

 

 

 

「ありがとう西武大津店」は全編試し読みができるらしい。期間いつまでか不明なのでお早めにぜひ。

試し読み | 宮島未奈 『成瀬は天下を取りにいく』 | 新潮社

 

Q・パトリック『Re-ClaM eX Vol.4』

 海外クラシックミステリを紹介する同人サークル、Re-ClaM編集部による同人翻訳誌『Re-ClaM eX』の第四巻。これまででセイヤーズやホック、H・C・ベイリーなどの未邦訳作品が紹介されてきた『Re-ClaM eX』が今回取り上げたのは〈ダルース夫妻〉シリーズでおなじみのQ・パトリックだ。本同人誌には2本の中編「出口なし」、「嫌われ者の女」に1本の短編「待っていた女」が収録されている。

 Q・パトリック(あるいはパトリック・クェンティン)の作品の特徴として、「強感情」が挙げられる。短編集『金庫と老婆』のいくつかでもうかがえるが、偏執に思えるような感情が引き金となって起こる事件を書くのに長けている。これはもうひとつの特徴でもある、一見テンプレ的状況なのにも関わらず、読んでいるとそのシチュエーションになぜか没入しているというクェンティン的マジックにも通じている。本誌ではそのようなクェンティンの楽しみを味わうことができる作りになっている。

 

「出口なし」"This Way Out"

 シーリアという愛しの彼女を太平洋戦争への出兵中に寝取られてしまったスティーブは恨みを晴らすために間男トニーを殴り昏倒させてしまう。その後少しの時間を空け再び現場へと戻ると、なんとトニーが銃殺されていた。さらには現場に、出兵前にシーリアへと贈ったはずのコンパクトが残されていた。

 中編を通じたフーダニットの構図が優れている。「はたしてシーリアがトニーを殺してしまったのか?」を知るために「誰がトニーを殺したのか?」という問いが序盤で立てられるのだが、それをコンパクトという小道具を使って「コンパクトはどのように現場に現れたのか?」という問いにすり替えている。ここでコンパクトという小道具が痴情のもつれ、金銭絡みでこんがらがった人間関係のそれぞれを象徴するアイテムになっているのが見事。例えばシーリアとスティーブにとっては互いの愛を確認し合うための一品だったのだが、実はシーリアとトニーの間にもこのコンパクトにまつわるいざこざがあり、もっといえばトニーとその妻の間にもこのコンパクトが現れる。そのために、トニーを殺した際にコンパクトをそこに持って行ったのは誰か? という問いは単に誰が殺したのか? という問いとして成立しているだけにとどまらない。コンパクトが犯人にとってどういう意味を持っていたのか? なぜコンパクトを現場へと運んだのか? といったいくつにも重なり合う問いとして生まれ変わるのだ。単純なフーダニットがひとつの小道具によっていくつもの展開を生んでいるのは、さすがの手腕だ。

 ということでこれはフーダニットものの中編ではあるのだが、一方でコンパクトの旅路を追うメロドラマでもある。だからこそ作品の終幕が痛切に響く。

 

「待っていた女」 "The Woman Who Waited"

かくてエラリー・トリンブルの人間性は、それぞれの建物の属する地区と同じく、すなわちスチュアートの「ジキル」とカーターズウィルの「ハイド」とに分割されたのであった。

 そう。エラリー・クイーンは『中途の家』を思わせるような設定がちらちらとこちらをのぞいてくる、なんともマニアック? な短編だ。短編といってもかなり短く、だからこそ保っているような作品ではある。ただしそうはいえど、さらっと使われるトリックにはささやかながらセンスを感じさせる(リンク先軽いネタバレ*1)。また編訳者解題でも触れられているような手のひらの上で踊らされる構図がなかなかに面白い。

 

「嫌われ者の女」 "The Hated Woman"

「出口なし」で既視感のある(発表順的には逆だが)、露骨に嫌なやつが方々で恨みを買い、挙げ句の果てに殺されるというテンプレ的状況から幕を開ける一作。恨みの買い方もこれまた痴情のもつれに金銭関係とどこかで見たような内容だ。しかし、そんな同じような状況から全くもって別の展開へと読者を誘うのがこの作家のすごいところだ。

「出口なし」と比較すると、こちらのほうが全うに犯人探しをしており、しかも作者も犯人を隠そうと努力しているのがうかがえる。ただ編訳者解題にて仕掛けが現代の読者にはわかりやすすぎるかもしれないと懸念されているように、たしかにシンプルゆえの見えやすさはあるのだろう。個人的にはこのくらいでちょうど良かったのでかなり楽しめた。それというのも、これまた編訳者解題で指摘されているように、本作は演劇的要素がかなり全面に押し出されているからだ。たとえば事件のあらましを説明するのにも、まず現場の様子(=舞台設定)が詳細に語られ、そのつぎに容疑者たちの動線と物品の動きがひとつずつ語られていく。ある意味で淡々としているその叙述は、絵を思い起こすと面白いのだが、とくに自分のような不真面目な読者にとっては、ただ読むという際にこんがらがってしまいかねない。ここで仮に複雑な仕掛けをこらされても困るので、個人的にはこの程度のシンプルさがちょうどよく楽しめた。

 また既述したが、終わり方や、事件のきっかけとなったある感情の変化が、「出口なし」ととても対照的なのも良かった。これらが同時に読めたことをうれしく思う。

 

 総合して、やっぱりパトリック・クェンティンはとても面白い作品を書くということが確認できた。まだまだパトリック・クェンティンには未邦訳作品がたくさん残っているようなので、出版社のみなさんに邦訳を願いつつ――。

*1:「あるものを消す」というのは最初から認知していたという前提ゆえに割合思いつきやすい認知ハックだが、「ないものを出現させる」というのには、Qパトの時代には特にセンスのいるトリックだったのではないか。いまではホログラムなりなんなりでそういうものを見ることもあるが、当時ではゴーストストーリーだっただろう。

「平行な私たちと、斜めなPたん」/改めて【NOT≠EQUAL】を読む

 シャニマスサブスクめちゃくちゃ解禁&もうそろそろの5thおめでとうございます。

 ビックウェーブに乗ってわくわくシャニマス胡乱話をします。評論でもレビューでも分析でも考察でも当然批評でもなく、牽強付会な都市伝説みたいな話です。都市伝説というか、もはや一種の願い、みたいなものかもしれません。

 数いる283プロのアイドルのひとりとして、今のところ三峰結華に与えられた物語は、「普通のアイドル」としてのプロデューサーとの距離感とまとめてしまうことができると思います。アイドルとして素質のある彼女、しかし、他のアイドルと比べて天性的な特別を持っているわけではなく、至極一般的な生活をしている彼女。それは歪にも、普通の少女としての日々にアイドルとしての顔が垣間見えるという逆転現象が発生してしまうほど、アイドルとして定まっていない三峰結華という少女。「アイドル」と「一般人」の境で、彼女自身がくらくらと揺らぐからこそ、動点Pである彼への気持ちの預け方も揺らいでいく、初期三峰コミュを総括するとそういう話になると思います。

 そして【NOT≠EQUAL】がそれらの物語の、転換点としての一幕であることは、もはや論を俟たないはずです。【NOT≠EQUAL】という題は「普通の私」は「アイドルの私」と違うことを示しており、それは飲み込んだ悲恋の物語であるという解釈が一般に為されています。

 もちろんこの解釈自体どこにも怪しげなところはなく、読みとして正しく消化されているように思います。ただしここでは、もう少し踏み込んで、「≠」のかたちについて考えていきましょう。

 よく知られているように、等号は2本の平行線によって記述されています。一見無関係な左辺と右辺に橋を渡す記号、それこそが等号です。一方で、等号自体のふたつの線はいつまで経っても交わることがない。しかし、そこに一本の斜線/を渡すことによって、ふたつの平行線は、つながります。不等号は、その意味とは裏腹に、本来無関係だったふたつの線に対して、一つの斜線がつながりを与える記号と捉えることができます。

 ではこの物語にとって、ふたつの平行線とはなんでしょうか。それは、それこそが「普通の私」と「アイドルの私」ではないでしょうか。そして、その、本来交わるはずのなかったふたつに橋を渡した斜線、それこそがプロデューサーでしょう。プロデューサーが「アイドルの三峰結華」を見出したことによって、彼女は「普通の私」以外の直線に気づく。そのことは、象徴的に斜線の挿入されている初期pSSRカード【お試し/みつゴコロ】に描かれています。

 このことを踏まえて。【NOT≠EQUAL】とはいったいどのようなコミュだったのでしょうか。「普通の私」への決別? 想いを飲み込んだ「悲恋」? プロデューサーと目線を一にするという覚悟? 

 自分は「羽ばたき」のコミュとして書かれているのではないかというふうに読みました。そのテーマ自体はなにも新しくはないのですが、大事なのは≠性の問題です。というのも≠という記号を左から右へ、時系をなぞるように見ると、下線にはじまり斜線を通って、上線へと辿り着く、sを潰したような一筆書きが浮かび上がります。垂直でなく斜めに橋がかかっていることで、上線から始めると、三峰がタイムトラベラーになってしまうのもちょっとしたミソです。このコミュでは、最終的に「アイドル三峰結華」を覚悟する三峰結華の様子が描かれている、ということはすでに先述した通りです。よって一筆書きは、始点「普通の私」から終点「アイドルの私」へと伸びていきます。

 要するに。下線「普通の私」をスタートし、プロデューサーによって架けられた橋を滑走路に、上線「アイドルの私」へと翔び立っていく。つまり【NOT≠EQUAL】によって三峰は、「『普通の少女』としての日々に垣間見えるアイドルらしさ」が魅力的な女の子から、「『アイドル』としての日々に垣間見える少女らしさ」が魅力的な女の子へと変身する、そういう話にも読めるのではないか、と思うのです。それは決して「普通の私」との決別や恋心の落蕾だけではなく、確かにプロデューサーとの目線を一にする覚悟を持つけれども、しかし一番は、プロデューサーという滑走路を信じて、三峰結華というアイドルへと羽ばたいていく、そういう覚悟を表しているコミュとして読みました。


というかそういうシナリオとして読ませてくれよ? 最近は楽しそうだからいいけど。