載籍浩瀚

積んで詰む

樋口有介『夏の口紅』

 青春ミステリが好きだ。とりわけ、家族や血の関係といった、力のない青春時代には切っても切ることのできない宿命的な関係に翻弄されながら、ひとつ、あるいはふたつほど、精神的成長を遂げるような青春ミステリが好きだ。そして本作『夏の口紅』は、まさしくそういった小説であった。

 あらすじは、たとえば以下のように紹介されている。

十五年前に家を出たきり、会うこともなかった親父が死んだ。大学三年のぼくは、形見を受け取りに行った本郷の古い家で、消息不明の姉の存在を知らされ、季里子という美しい従妹と出会う。一人の女の子を好きになるのに遅すぎる人生なんてあるものか…夏休みの十日間を描いた、甘くせつない青春小説。

 物語は若者たちの、夏の暑さから逃避するように籠った、湿度の高く脱力感の残る部屋で幕を開ける。香織という少し年上のお姉さんと、「ぼく」こと礼司との、名前のないゆえに責任を回避した絶妙な関係が描出される。そんな礼司が家へと帰宅したとき、ケーキをつくって待っていた母から「父の死」を告げられる。その後礼司は、父の面影が残る他人の家へと赴く。そこにいたのは義理の従姉妹で、「病気」を持つおかしな少女、季里子だった。そこで礼司は彼と、知らない姉の分の遺品を受け取る。

 顔も知らない「父」の死をきっかけに、存在すら知らなかった「姉」の影を追うことになる。自然とそこには、家族を放棄した父の姿が浮かび上がってくる。血の関係に惑わされる主人公の前にさらには「義理の従姉妹」が現れる。この彼女に翻弄されながら、「ぼく」は「姉」を探っていく。

 主人公にとって不可避な、宿命づけられたものに翻弄されながらルーツを探っていくという序盤のプロットには、エスケンスの『過ちの雨が止む』を想起する。どちらも知らないところでの、知ることのない父の野放図な振る舞いが、息子である主人公へと返ってくる。それが探索行の邪魔になると同時に手がかりになり、物語は進んでいく。そんなこの二つの作品の違いは主人公の立場にある。『過ち』の主人公が、恋人や弟への責任を負う立場であるのに対して、本作『夏の口紅』の礼司は誰にも責任を負わなくていいゆえの軽さを持ち合わせている。

 その軽さは、礼司の会話にも表れている。

「遅くなるとお母様に叱られる?」「女の子と待ち合わせがあったことを、思い出しました」「今まで忘れていて、突然思い出したの」「それぐらいのことは、いつでも忘れて、いつでも思い出せます」

 あるいはもっと、意味のない言葉の交換をしている場面もある。

「おばさんは?」「いる」「いるのか」「いる」「そう、それは、よかった」

 もちろんこれらは、本作のハードボイルド的なプロットを象徴するための、ニヒルなレトリックに過ぎないのかもしれない。しかし最後まで読んだ読者には、礼司の照れくささのなかに想いを詰め込んだ、あの肩肘張った一文が印象に残っているはずだ。それを思うと、やはりあの場面までの礼司の言葉には、レトリックによる軽妙さではなく、無責任さゆえの気軽さが表れているようにも思える。

 そうすると、本作は礼司が他者を負うことによって、他者により一層深く踏み込むことを覚える物語として読める。彼を翻弄した宿命から逃れるのではなく、それを受け入れて、むしろ宿命を使うことによって彼らは立ち向かっていく。その思い切りの良さに、籠った熱がさわやかな風によって拡がっていくような、そんな爽快感を覚えた。

 

 

 

2022年下半期読書記録

 この時期になると、「師走は忙しい、街は慌ただしい」というキラーフレーズが頭のなかをリフレインする。卒業という明確な境をひとつ控えた年の瀬だからこそ、その慌ただしさは例年に比べより際立っている。とはいえ、なんとかのらりくらりと乗り切れた下半期。2022年の七月から十二月までに読んだ本の記録をかき集める。
 上半期*1と同じく、長編15冊に短編15本を紹介する。列挙される順番は決して優劣によるものではない。

長編

補記
  • 紙面上で起こっていることが正しく理解できなくても感情が揺さぶられることがある。文章の可能性をまたひとつ見せてくれたのが『さようなら、ギャングたち』だ。いまや気高い文学として名を馳せているけれど、あえてこう評してもいいはずだ。これは紛うことなき激エモ小説であると。
  • 一方で、文章、プロット、アイデア、そのすべてで感情を揺さぶってきたのがパワーズ『惑う星』である。それはひどく寂しく、そして冷たい物語であった。だからこそ、もう自分はロビンが戦おうとした場所から目を背けられない。目を逸らしてしまえば、彼の生き様を否定してしまうような気がするから。そしていつか語ることのできる日がくればいいなと思う。この惑星もそんなに悪いところじゃないだろ、ロビンと。
  • 今年一番読み終えるのが大変だったのは、これまたパワーズ『黄金虫変奏曲』だった。物量という点でもだが、その物量がゆえに捉えどころが掴めにくかったのだ。しかしどうにか読み終えられたと思う。あの物量は、日常が螺旋のように進むことを描くためのものではないか。堀江敏幸『その姿の消し方』を読むことでようやく納得することのできた、貴重な読書体験であった。
  • 捉えどころのない、といえば『モレルの発明』もまた、掴みにくい小説であった。その仕掛けは比較的単純であり、ともするとそれが大仕掛けであることからミステリ読みにもおすすめのできる一冊である*2。しかしミステリに増して、その仕掛けにはそれが仕掛けられるだけの小説的意味がある。その意味を了解するのが少し大変であったが、その分また充実した読書であった。
  • 「果ての果て」を追い求める作家・沢木耕太郎による数少ないフィクションのひとつが『波の音が消えるまで』である。丁半博打バカラの必勝法を追い求める主人公の生き様を描く本作でも、究極への渇望がきりきりと著される。
  • 現代恋愛小説の名手であり、もう盟主とまでいっていい存在となった凪良ゆうの新作『汝、星のごとく』もまた素晴らしかった。話題作『流浪の月』よりも主人公たちを追い詰めることで、恋愛小説であることを逆手に恋愛という枠を超えた無二の関係を連発していく。
  • 新作枠でいえば、早瀬耕と米澤穂信の新作は絶対に外せない。個人的にではあるが、いまの書き手のなかでは世界中を探っても五指に入る二人の小説家によるものだ。『十二月の辞書』『栞と毒の季節』も震えながら読み進めていった。下半期を乗り越えられたのはこの二冊のおかげといっても過言ではない。必須ではないが、前者は『プラネタリウムの外側』を後者は『本と鍵の季節』の読後に読むことを強くおすすめする。
  • 下半期に作家読みした作家は数名いたが、再読にとどまらず広く読んだ作家が若竹七海だった。若竹先生は『ぼくのミステリな日常』や<葉村晶>シリーズの前半などで親しんでいたものの、<葉村晶>も途中で止まってしまっていたし、これを機に色々と読んだ。そのなかでの収穫が、まず『クール・キャンデー』である。若竹らしい毒とサプライズは健在のまま、気だるげな夏休みを書いた見事な青春ミステリ。しかも本格ミステリとして出色の出来なのだ。短いながらもごりごり推したい一作。もうひとつは悪運の強いヒロイン葉村晶から『錆びた滑車』を。葉村晶シリーズはどれも読み応えのある名シリーズなのだが、そのなかで一番好きな長編がこの『錆びた滑車』だった。このシリーズもまた下半期のしんどさを支えてくれたと思う。葉村晶よりはマシ! という感じに。
  • 待望の復刊『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』は、期待通りのすさまじい青春ミステリであった。帯に書かれている「僕、分ったんです。人を探るということは、実は、それと同じ分だけ、自分自身を探るということが必要なんだということに。これが僕の探偵法、だったのです——」という言葉につよく惹かれて購入したところ、なんとこれが奇書顔負けのアンチミステリ小説だったのだ。しかもただアンチミステリなのではない。帯にも書かれた主人公の探偵法を表現するための手法として『虚無への供物』を引いてきており、そして見事に結実している。
  • 上半期の『プロジェクト・ヘイルメアリー』枠。つまりはひたすらエンタメ強度の高く、没頭して読んだのが夢枕獏による神々の山嶺だ。文句なしの臨場感。これもまた「果ての果て」を希求した男たちの物語。読む手が止まらないとはこのことかと、一心不乱ににページを繰った。
  • 奈倉有里による『夕暮れに夜明けの歌を』は東欧文学のガイドブックとしては言わずもがな、ロシアという国への紀行文として、さらにはメタフィクションとしてまで楽しめる見事なセミフィクションだった。こんな時勢だからこそ、世界中のどこにだって、わたしたちと同じく日々を過ごしていたひとたちがいるというあたりまえと向き合いたい。
  • 『名探偵のいけにえ』ならびにスクイズ・プレー』は今年の新刊ミステリ枠。詳しい感想は年度ベストの記事*3を参照してください。
  • 読めて良かった作品はまだまだたくさんある。『優等生は探偵に向かない』『永遠についての証明』『空をこえて七星のかなた』『妖女のねむり』『見えないグリーン』ゼロの焦点』『太陽黒点』『靴に棲む老婆』『SF作家の地球旅行記など、読んで良かった長編は両手にあまるほどだった。

 

 

 

 





短編

補記
  • 下半期短編のツートップはそれから千万回の晩飯」神についての方程式」だ。前者は米澤穂信という作家がどう小説に向き合ってきたのかが窺える私小説にして、山田風太郎にまつわる謎に迫るミステリにまで仕上がっている贅沢な一作。米澤穂信短編傑作選が編まれる暁には絶対に入れたい。後者は絶賛話題沸騰中の小川哲による見事なSF短編だ。カルトと感情と論理の関係をさまざまな角度から表出させている『文藝』への掲載短編のなかでも特に外連に満ちている。こちらも小川哲短編傑作選が編まれる暁には入れてほしい。
  • SF短編といえば、ヴァーリイの傑作選『逆行の夏』が個人的に刺さった。どれも読み終えるたびに興奮が止まらなかったのだが、その中でも「残像」「ブルー・シャンペン」はさらに群を抜いてよかった。まさに傑作だとおもう。
  • ミステリからは「11文字の檻」「神の光」「検察側の証人」「顔」を。前者二つは新作、後者二つは大ベテランによる言わずと知れた名作だ。純粋に面白かった四つを並べてみたが、こう並べると見事に放っている色がばらばらである。それぞれにミステリとしての面白さがあり、それはそのままミステリというジャンルの懐の深さを感じさせる。
  • 講談社文芸文庫から出ている『群像短編名作選1946〜1969』からの収穫が「鎮魂歌」「囚人」「懐中時計」。このアンソロ自体が日本文学の美味しいとこ取りみたいなところがあり、かなり楽しめた。特に「囚人」は怪奇幻想小説が好みなひとにもおすすめだし、「懐中時計」のほうは信じがたいかもしれないが、ギャンブル小説の面白さがある。
  • 綿矢りさをちまちまと読んでいて、下半期は『ひらいて』と『インストール』を読んだのだが、そのなかでも後者の表題作にしてデビュー作「インストール」は見事だった。これがデビュー作とは信じられないくらいに、構成で勝負できている。綿矢りさはあの文体が持ち味だと思っていたが、どうやら見誤っていたようだ。作品の骨組みそれ自体にも、感情に訴えかけてくる力強さがある。
  • リチャード・パワーズ "Dark was the Night"は、縁あって邦訳された「夜の闇は深く」で読ませていただいた。そのとき同時に邦訳をいただいた "To the Measures Fall"もまた素晴らしい短編だったのだが、『惑う星』を読んだいまどちらかに軍配を上げるとするならば、今の自分は「夜の闇は深く」に上げると思う。邦訳者にはこの場で再度、深く感謝します。おかげで素晴らしい短編に出会えました。『惑う星』に心動かされた読者は、ぜひ "Dark was the Night"も読んでみてほしい。どちらも宇宙と治験をテーマにしているというだけではなく、もっと根底のところで共鳴しあっているはずだ。
  • 今年度ミステリ新刊枠からは、量子力学を使った小説のなかでは個人的ベストの「爆発物処理班の遭遇したスピン」と、エイリアンという言葉に癒されるリューイン「それが僕ですから」をおすすめしたい。どちらの短編集も、短編集として見事なので、ぜひ手に取ってみてください。

 

 

 

 

 


 来年はさらにインプットとアウトプットを増やして、小説だけではなく漫画や映画もたくさん読んで見てとしたいな、と思いつつ、ここらで筆を擱きます。小説書いたり、同人誌だしたりしたい!

 ということで、みなさま良いお年を。来年もよろしくお願いいたします。

*1:2022年上半期読書記録 - 載籍浩瀚

*2:実際自分は、都築道夫-法月綸太郎による叙述の文脈で後輩に本書を紹介してもらった。横田創『埋葬』とともに読むといいとのことでそちらも読んだ。なるほどすべて語りのマジックの話である。

*3:ミステリベスト2022 - 載籍浩瀚

青崎有吾『11文字の檻』

 青崎有吾による未収録短編集である。いわゆるミステリは三作のみ。ほかには百合短編がひとつ、二次創作がひとつ、そしてショートショートがみっつ収録されている。

 ファンならば必読の短編集。ファンでなくとも、どうにかして「加速してゆく」と「11文字の檻」は読んでいただきたい。

「加速してゆく」

一年後、自分はこの本のことを覚えていられるだろうか。

十年後、この脱線事故のことを覚えていられるだろうか。

『平成ストライク』で読んだときから、青崎短編のなかでも、はやく評価されるべき作品だと思っていた。今回この作品が短編集にまとまったというだけで、本短編集には価値がある。

 都心であればあるほど、いまやその存在無しでは生活を送ることすら考えられないまでになった電車。しかし平成17年に、その電車にまつわる未曾有の大事故が起きてしまった──本作のモチーフにもなっている「福知山線脱線事故」である。

 主人公のカメラマンは、電車を待っていた。もし事故が起きなければ、ホームに入ってくるはずであったその列車を。しかし事故は発生し、彼らは記者の宿命として脱線事故にまつわる調査へと乗り出す。その過程で、新聞社は悲惨な事故から運良く回避したひとのインタビューを集めることになる。それはたとえば主人公であり、もしくは現場でともに時間を過ごした、あのときホームに佇んでいた不思議な少年でもあった。

 平成とはどういう時代だったのか。福知山線脱線事故は、平成という時代が生み出した事故ではなかったか。それがまず第一の主題であろう。戦後からずるずると受け継いできた過剰労働に、責任を押しつけあう企業体質。バブルの破裂を取り戻そうと、一度抱いた幻想への回帰に躍起になって、平成という時代は加速していった。また平成はジャパニーズ・カルチャーが発展した時代でもあった。消費物としてのエンターテイメント。わたしたちは享受した物語をすぐさま放棄する。過剰に供給されはじめたエンタメへの需要の仕方は徐々に歪なかたちを成形しはじめた。それにはインターネットの興隆が強く影響しただろう。同時にそれは、いままで真っ暗だった部分にスポットライトを当てるきっかけにもなった。しかしわたしたちは欲深く、スポットライトを乱射した。そしてついに、情報流は、わたしたちの限界を超えたのだ。そしてそれは令和に入ったいまなお、加速し続けている。

 文庫本約50ページにして、青崎有吾は平成を俯瞰した。そして本作は、あのときなにがあったのかを追い求めるミステリという形式だったからこそ、書かれた作品でもある。その代名詞に「平成」とミステリにおけるキングの名を含んだ著者の、代表作といってもいい一作だ。

「噤ヶ森の硝子屋敷」

 無風がゆえに、まるで森が口を噤んでいるさまから名づけられた噤ヶ森。そこにはある建築家の手によって建てられた全面硝子張りの屋敷があった。そこを観光地化しようとする目論見の下見に、一行は屋敷へと赴いた。しかし到着して束の間。銃声のようなものが宿場のほうから聞こえてくる。急行すると、あつらえたように現場は密室状態で、中には死体が転がっていた。さらには現場検証をする暇もなく、屋敷が消失してしまう。

 トリック(と変なキャラたちを楽しむ)小説にしては、トリックのキレが鈍い。硝子屋敷に噤ヶ森と本格ミステリ世界を構築したのにも関わらず、無理があるんじゃない……? と解決編でツッコみたくなるところがしばしばあるのだ。それに硝子屋敷という、せっかくの面白ガジェットが十分に活かされていないのも物寂しい。もちろん普通の屋敷よりかはトリックへの説得力が増しているとは思うのだが……。反面、噤ヶ森の使いかたはかなり良かった。一見意味の分からない「当日の気温は?」という質問も、解決編を経ると膝を打つ問いであるということが分かる。

 とはいえ短編として全体を見ると水準作であるとは思う。この一編をもとに奇天烈建築物連作ミステリが執筆されるかもしれないらしいということなので、期待したい。

「前髪は空を向いている」

私がモテないのはどう考えてもお前らが悪い! 小説アンソロジー』から青崎先生が執筆した二次創作作品。ミステリではなく、さらにはその性質上青崎有吾作品としても例外的な作品である。

 感想はというと、良くも悪くもよくできた二次創作作品といったところに留まる。岡田茜を語り手として、本編の主人公である黒木智子に振り回される友人根元陽菜に心を乱される彼女の様子を描出している。おそらく青崎先生がネモと岡田さんのファンであるがゆえに生み出された作品なのであろう。ただ岡田さんはいわば本編の傍観者、二次的に主人公に巻き込まれてしまったキャラクターであり、そんな彼女を丁寧に描くことで『わたモテ』の世界を拡張している、あるいは一番「普通」な彼女を書いて『わたモテ』とわたしたちの現実とを地続きにする試みみたいなものを行っていたのかもしれない、と勝手に感じた。

 でもさ、作品への身勝手な愛をぶつけることで輝きを放つ二次創作と、ある程度読者を想定しなければならない商業は食い合わせが悪くない?

「your name」

「どんでん返し」をテーマに執筆されているわりには、かなりロジカルな作りがされている。雑誌『story box』では見開き一ページの分量で、事件の発生にキャラクターの登場、ひっくり返すのに必要な手がかりの配置からフィニッシングストロークまで決め切るのには脱帽のほかない。

 本作を読み返して、普遍的な状況から少しズレた若干の特殊状況においては、こういったどんでん返しが説得力を持って──突っ込まれにくく──結実しやすい可能性を覚えた。

「飽くまで」

 奇妙な味のショートショート。物を持っては、持ち続けることに飽きてしまい捨ててしまう、そういう性癖を持った男が、付き合って三年、結婚して一年寄り添った妻を殺害し捨てることを決意する。その先に待ち受けるブラックユーモアなオチを楽しむ作品。

「クレープまでは終わらせない」

 なにか得体のしれない怪物と戦ったりもするSFチックな社会を舞台に、<コームイン>の女子高生たちがクレープを食べに行く掌編。田中寛崇さん──<裏染天馬>シリーズや本作のイラストを描いている絵師さん──の絵をモチーフにした作品ということで、田中さんの絵っぽい世界観が描かれている。田中さんの絵はコミケなどでちまちまと同人誌を買っているくらいには好みで、一ファンの目線からいうと、この作品で表現されている世界観にはかなり共感できる。こういったデジタルっぽい、でも地続きな近未来ではない変な社会で、強かにカッコよく生きる女子高生みたいなのが、田中寛崇さんのイラストに感じているものだったからだ。

「恋澤姉妹」

 他人様に観測されたその瞬間に、わたしたちの無二の関係は俗に言語化されてしまう。だから虚に、それはまるで怪異のように、人目に触れることなく、恋澤姉妹は生きている。

 個人的にエモさは感じられなかったけれども、恋澤姉妹と主人公たちの比較が上手く効いていた。「関係性」が記号として処理されていく現代のエンタメにおいて、恋澤姉妹は華麗に屹立している。

「11文字の檻」

 政府への敵性思想を表現したことで、更生施設へ無期限の入所が決まった縋田。脱出するには「東土政府に恒久的な利益をもたらす十一文字の日本語」を特定し、解答欄に記入しなければならない。手がかりが限りなく少ないなかで、縋田は11文字の檻から抜け出すことができるのか。

 脱出ゲームというアトラクションが市民権を得て、あるいはパズル的な「謎解き」──これは本格ミステリにおけるパズラーという意味ではない──が市民権を得て、小説のなかに描かれるようになって以来、脱出ゲームミステリの最高傑作と言いきってもいい一作が現れた。

 この短編の面白さは、解答への手がかりのなさにある。ヒントもない中、11文字で構成される日本語の文字列を当てろという無謀さに縋田は挑むことになる。とはいえこれはゲームでなく囚役で、最初は施設に馴染んでいく主人公の姿が描かれる。まずそこで、すべての礎となる脱出への基本的なルールが提示される。余白は貴重であること。部屋内での殺人行為が行われる場合もあること。そしてやはり、解答を特定することは、砂丘から特定の砂粒ひとつを探りあてるほどに困難であることが知らしめられる。

 しかしひょんなことから、縋田は統括管理責任者──つまりはゲームマスター──から、これは単なる懲罰ではなく、ゲームとしての側面を持っていることを明言される。そこから縋田は、それならば解答欄や解答基準になんらかの絶対的なルールがあるのではないかと、目には見えない手がかりを探っていく。

 一般的なミステリであれば手がかりは探偵の目に見える状態で現場に散らばっているはずである。探偵はそれをもとに推理を構築し、真相を看破する。手がかりがどう組み合わさるかにアクロバットさがあると、そこに芸術点が加算される。一方で本作では、手がかりを探りあてるその時点でアクロバットが必要になる。ゼロからの論理的飛躍、あるいは実験的思索、つまりは推理を行うための推理が楽しめるわけだ。本書には収録されていないが、著者はギャンブル短編を数編発表している。そこで描かれたギャンブル的ひりつきが、本作では主人公縋田が解答への手がかりというジャックポットを当てる過程で描出されている。

 なぜ収監されたのか? や、ここはいったいどのような施設なのか? といった大味な謎は存在しない。11文字を特定し、ゲームマスターにぎゃふんと言わせる。たったそれだけであるが、それだけがゆえに切れ味の鋭い、唯一無二の名作に仕上がっている。

村上春樹『風の歌を聴け』

 数年前、村上春樹のレビューでもすれば自分も小説を読めるようになるのではないかと思って書いた雑文です。

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 世界はこんなに騒がしいのに、自分の周りは寂寞としている。こういう時、僕は本に寄る辺を求める。何も考えずに読める本がいい。だから僕は村上春樹の『風の歌を聴け』を本棚から抜いた。

 村上春樹といえばなんとなく意味の分からないイメージがある。あとめちゃくちゃやれやれって言ってるイメージも。後者はともかく、前者のイメージは正しいと思う。アメリカ文学ーー特に現代ーーに強い影響を受けているらしく、スタインベックとかヴォネガットとかの作品群に似てるらしいが、それについては不真面目な読者なのでよく分からない。*1

 まあそれでも小説の雰囲気がアメリカっぽいことは断言できる。作品の主な舞台が「ジェイズ・バー」と呼ばれるバーで、DJによるコメディカルなラジオがたびたび挿入される。上澄みでしかないが、やっぱり日本的というよりは欧米的、特にアメリカンなものを感じる。(舞台設定もバブル前だし)

 でもそれは雰囲気であって、じゃあ内容はどんなのだと言われると、これがさっぱり分からない。そもそも物語の「結」の部分がよく分からないのだ。何なら「承」も「転」もよく分からない。あるのは〈僕〉と鼠の出会いという「起」の部分だけで、しかしそれさえもこの小説の「起」ではない。ただこの感覚は正しいらしく、作者本人も「最初はABCDEという順番で普通に書いたが面白くなかったので、シャッフルしてBDCAEという風に変え、さらにDとAを抜くと何か不思議な動きが出てきて面白くなった」と述べているらしい。

 このようにつかみどころがないのは間違いないが、じゃあつまらないのかというとそれも違うのだ。間違いなく面白い。ポップな文章と巧みな語りで読者を引き込むのは、さすが村上春樹だとしか言いようがない。それにつかみどころがないなりにしっかり楽しませてくれる。

 まずいきなり〈僕〉の文章談義から始まる。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」

 この一文を引き金に、約三ページくらい〈僕〉の文章への苦悩が語られる。これは作者本人の文章論らしい。この一節を書くためだけにこの本を書き上げたーーそれでデビューして今やノーベル文学賞候補だーーというほどに気合が入ってるだけあって、読み終えた後もこの一節の印象は深い。

 他にも鼠と小説談義を始める5節や、クールに生きたいと考えた時代を回想する30節、嘘について不思議ななぞかけが書かれた34節などを経て全40節でこの本は幕を閉じる。

 意味が分からないから教訓もあまりない。*2だから何も考えずに読むことができる。何より短いから手軽に読むことができるし、普段本を読みなれてなくても、文章が勝手に読ませてくれる。読者は目を滑らせるだけでいい。

あらゆるものは通り過ぎる。誰にもそれを捉えることはできない。

 僕は安心して世界から切り離され、読書にいそしむことができる。

 

 

*1:いま思うと、スタインベックヴォネガットも現代米文学といっていいのか微妙であえる。しかも例に出すには、もっと相応しい作家がいくらでもいる。なぜこの二人を選んだのか、いまや神のみぞ知るといったところだ。

*2:かなり喧嘩を売っているなとも思うけど、ここについてはいまもそう思っている。この小説はその上辺の空虚さこそが読者への最大の救いなのだ。

高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』

 レビューにも紹介にもなっていない、インターネットへの壁打ち記事です。

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 まじもんの傑作。名前が自由であることや、独特な文体から小説、あるいは世界の形式をどうのこうのと凄さを言語化することはできてもーーとはいえ自分には手に負えないーーこの小説の面白さはなかなかどうも言語化できそうにない。

 読んでいる最中、ずっとなんじゃこれはと慄き続けていた。ポップ文学と呼ばれていてーーたしかにポップで文学ではあるーーでも若者言葉とか流行りとはちょっと違って、とはいえ文学にしてはかしこまっていない。お堅い「文学」というよりは、ついつい「エモい」と評してしまいそうになる程度には、登場人物たちに潜む物悲しさに共鳴してしまう。時折見せる真剣さに、誰も付き合ってくれないからこそ湧き出てくる若干の気だるさも相まって、やっぱりエモい小説だなと思う。そういうポップさだ。

 というか、表現ってこんなに自由で良いんだよな。プリンに醤油かけて食べるみたいな、ぱっと見食い合わせ悪そうには見えるのだけれど、案外いけると思えるラインを見極めることができれば、そのくらいは独創的でいい。もちろんこのラインの見極めがあまりにも至難の業だから、そう簡単には自由な表現なんてできないのだけれど、だからこそ出会えたときの嬉しさは格別だ。

 ここまでありふれた言葉を連ねてしまっていて不甲斐なく思ってはいるけれど、気にせずここからも連ねていく。内容もこれがまた良いんだという話をするために。

 第一部で登場するキャラウェイの話は、物語のなかで起こっている現象としての意味はよくわからなかったのに、ただただ悲しくて泣きそうになった。それと第三部でギャングたちに、「詩」を教えるところも素晴らしい。その「詩」が、いわゆるポエットかどうかもよく分からないところも好みだ。禅問答みたいなやりとりは、なぜそこでその言葉が出てくるのか、やはりまったく分からないのだけれど、でも真剣さは伝わってくる。誰も相手にしてくれない本気がそこにはあって、でも空回りはしたくないという意地も感じる。

 この小説を読むのに、特に素養は必要ない。優れた感性も、言語能力も必要ない。作者の飛び抜けた素養、感性、言語能力によって、日々を過ごすなかでよぎる感情が文体に詰め込まれているから。読者はその感情の迸出を、文章を通して受け取るだけでいい。

 

 

 

ミステリベスト2022

 新刊マラソンの感想です。ランキング候補のレギュレーションは以下の通りになります。

  1. 2021年10月以降、2022年9月までに発売された本であること。
  2. 筆者がミステリだと感じた作品。

 国内総合部門、国内本格ミステリ部門、海外総合部門の三つの部門を用意しました*1。当然これらは完全に筆者の好みによるものです。本格/非本格についても同様です。それぞれ6冊ずつ、ランキング形式で選んでいます。

 

国内総合部門

  1. 佐藤究『爆発物処理班の遭遇したスピン』
  2. 加納朋子『空をこえて七星のかなた』
  3. 乗代雄介『皆のあらばしり
  4. 奥田英朗『リバー』
  5. 有栖川有栖『捜査線上の夕映え』
  6. 芦沢央『夜の道標』
  • 先に言っておくと、『同志少女よ、敵を撃て』と『地図と拳』は外してあります。理由は単純で、自分のなかで決めていたランキングの趣旨がぶれると思ったからです。
  • なんとなく豊作の年だと思っていたのですが、振り返ってみると、意外とオールタイムベスト級の作品は登場しなかった一年だったように思います。もっといえば、長編の大当たりが少なかった年でした。実際一位と二位に選んだ作品はどちらも短編集です。
  • 『爆破物処理班の遭遇したスピン』は著者の強みがよく活かされた独立短編集でした。SF的なギミックも光る表題作、『テスカトリポカ』を思い起こさせるようなノワールやハードボイルドものもあれば、バイオエンジニアリングをモチーフにした奇怪な短編など、幅広く技巧的な作品が揃っています。ミステリファンだけでなく、小説が好きだという方におすすめの一作です。
  • 『空をこえて七星のかなた』もまた、加納先生らしい温かな世界観でいて鋭く人物を描いていく作品でした。連作小説として、それまでの違和が最後の短編で収斂し、すっと心に響いてきます。
  • 芥川賞の候補にまでなった『皆のあらばしりですが、これがミステリ小説における語りを抉り出すような作品で、今年の思わぬ収穫でした。高田大介や北村薫を彷彿とさせるビブリオミステリのような面白さはもちろん、読んだあとに、ミステリのあの騙しの仕掛けがどういう構造をとっているのか、少し考えさせられるような作品です。
  • 今年度の警察小説の本命は間違いなく『リバー』でしょう。圧倒的なディテールで警察小説の面白さのさまざまな側面を、「執着心」という感情を通してまとめあげた力作です。組織としての警察、民間人と関わる団体としての警察、被害者家族と警察、逃してしまった事件と警察、警察を辞めたあとの警察官、ここらに新米記者や狂気をまとった筆頭容疑者が絡み、緊迫感のある引き締まった作品になっていました。
  • 物語のなかで、ふとした情景が描かれて、それがなぜか胸に残ったという読書体験が、ごくまれにあります。それが今年は『捜査線上の夕映え』でした。この作品、有栖川有栖の書く本格ミステリとしてみると、お世辞にも評価はできません。ロジックもそこまでありませんし、トリックも正直いって鈍いです。しかし火村とアリスによる捜査小説として見ると美しくまとまっている。いつもロジカルに事件を紐解いていく火村たちが、事件に接した際に抱いた割り切れなさを乗り越えようとしたからこそ、あの夕焼けを描けたのでしょう。また昨今のコロナ禍で、どうにも物語ですら狭く縮こまっていた印象なので、久しぶりに悠々とした味わいがあったのも良かったです。
  • 最後の一作は迷ったのですが、滑り込みで読んだ『夜の道標』を選びました。ミステリとしてのインパクトというよりも、エピローグの描かれかたが好きだったからです。どん詰まりになったときに読むと、少しだけ救われるかもしれません。
  • ということで以上六冊です。ほかに面白かった作品を挙げるとすれば、一気読みさせる『爆弾』『俺ではない炎上』、世界観とミステリが上手く融合している『あれは子どものための歌』『やっと訪れた春に』、ただただ好みな『予感(ある日、どこかのだれかから電話が)などでしょうか。

 

 

国内本格ミステリ部門

  1. 白井智之『名探偵のいけにえ』
  2. 北山猛邦『月灯館殺人事件』
  3. 阿津川辰海『入れ子細工の夜』
  4. 笛吹太郎『コージーボーイズと消えた居酒屋の謎』
  5. 山沢晴雄『ダミー・プロット』
  6. 東川篤哉『仕掛島』
  • 今年の本格のなかで『名探偵のいけにえ』は、頭ひとつ抜けていました。二転三転する面白さが「多重解決」の企みとの合わせ技になっているし、奇跡を裏づけるロジックという試みに成功しているのが素晴らしい。どこまで意図しているのかは分かりませんが、ロジックの瑕疵がひとつのありうべからざる真実を照らしている。新本格ミステリの看板を引っ提げたとしても名前負けしない、企みに満ちた王道を行く名品でした。
  • 逆に新本格の自己批評性を極めた一作が、『月灯館殺人事件』でしょう。この先本格ミステリは、作中の七つの大罪を乗り越えて行ってほしいです。本当に。
  • 気鋭の本格派阿津川辰海による新作入れ子細工の夜』も、また良かったです。表題作ならびに「二〇二一年度入試という題の推理小説」は本格ミステリにおけるどんでん返しに挑んでおり、フェアプレイを貫きつつも解決がひっくり返り、唯一無二の真実に向かっていく様子は見事でした。
  • 今年の個人的な新人賞は笛吹先生による『コージーボーイズと消えた居酒屋の謎』です。黒後家蜘蛛のように、顔見知りの集まりに謎が持ち込まれ、ディスカッションしながら推理を行うという古典的な形式ではありますが、短編の構造が型にはまっている分、謎の不可解さと推理の切れ味を存分に味わうことができる優れた短編集でした。
  • 『ダミー・プロット』は同人誌でしか読めなかった作品の復刊ということもあって、いい意味で時代遅れの本格ミステリとして新刊枠に入ってきた作品です。今や珍しいほどにガチガチのパズラーで、冒頭で「双子トリック」を用いると読者を挑発するようなプロットを用意してきながらも、見事に裏をかかれました。そういうと『殺しの双曲線』を思い出す向きもあると思いますが、それとはまた違い、作者が本格ミステリの不死性を問うために作り上げた作品ともいえるでしょう。
  • 最後の『仕掛島』は偏愛票です。もともと『館島』が好きですし、それと同質のユーモア本格ミステリが読めたのがまずとても嬉しい。そして『館島』といえばド派手な例の仕掛けですが、今回は『仕掛島』ということで、前作に増して、仕掛けかたが派手になっています。ロジカルな、というよりも、「そんなわけないだろ! いやでもすげえ!」と叫んでしまうような一作ですが、とはいえ今年度のなかで一番自由な本格ミステリだったと思います。
  • 他に良かった本格ミステリを挙げるとするならば。結城真一郎『救国ゲーム』はドローンを用いた本格ミステリに政治サスペンスが絡んでおり、古典ミステリを新しいガジェットを用いて復興した面白さがありました。偏愛作『夕暮れ密室』の著者による待望の新作『風琴密室』は、著者らしい瑞々しさと苦々しさが合わさった青春小説に著者らしい機械的な密室が描かれています。大山誠一郎の新作『記憶の中の誘拐』『時計屋探偵の冒険』はどちらも平均点の高い作品が並んでいました。

 

 

海外総合部門

  1. ポール・ベンジャミン『スクイズ・プレー』
  2. アレン・エスケンス『過ちの雨が止む』
  3. ホリー・ジャクソン『優等生は探偵に向かない』
  4. タナ・フレンチ『捜索者』
  5. エルヴェ・ル・テリエ『異常〔アノマリー〕』
  6. マイクル・Z・リューイン『父親たちにまつわる疑問』
  • 個人的にATB級の傑作が少なかった国内新刊とは裏腹に、海外の方は大当たりと言っていい年でした。『ザリガニの鳴くところ』、『雲』、『オルガ』、『たとえ天が堕ちようとも』などが並んだ2020年に比肩するか、それ以上の収穫がありました。
  • 大家ポール・オースターの別名義、というよりもオースターがオースターとして登場する以前用いていたペンネームで書いたハードボイルド小説が、今年度一番の新刊小説スクイズ・プレー』です。自分のなかのハードボイルドのイデアに近しい作品といっていいほど、文体に切れ味があり、キャラクターの動きと台詞だけで読んでいて楽しい。それでいて謎と解決も、文学的ではなく、ミステリのそれとして決まっている。陳腐な表現ですが、傑作と言いきれます。
  • そんな『スクイズ・プレー』に負けず劣らずだったのがエスケンスの新作『過ちの雨が止む』です。現役海外作家のなかでは一番の推しの新作は、デビュー作『償いの雪が降る』の続編でいて、邦訳されたなかでは間違いなくベストワーク。過ぎ去った青春のその後を描いているのですが、しかしこれもまた青春ミステリであるところに、成熟することの難しさを感じます。自身のルーツを探求していくなかで、彼らは青春の日々に背を向けることができるのか、読めて良かった一冊です。
  • 青春ミステリの続編といえば、『優等生は探偵に向かない』も忘れてはならないでしょう。前作では本格ミステリとしての高い評価も受けましたが、今作では少女の高校生らしい全能感を砕く挫折と、そこから自我を作り上げようとする青春小説として高く評価できる一作です。前作と今作を合わせてひとつの作品としてみると色々とすっきりするでしょう。来年三部作最後の作品が邦訳されるみたいですが、どんな作品になっているのか、今から楽しみでたまりません。
  • ここからの二作は、いわゆるミステリからは少しズレているかもしれません。タナ・フレンチ『捜索者』はある人物を捜索することそのものが、主人公たちの救いになっていくような小説です。見えぬ真相には納得いかないかもしれないけれど、でも捜査行と、交流のなかで光明が見える。シビアで現実的なんですが、全体を纏うのは優しげな雰囲気、そういう一作です。
  • そして『異常』は、さらにミステリからかけ離れている。どちらかといえばSFのほうがジャンルとしてはふさわしいのかもしれない。本当のところは思弁小説、あるいは実験小説というのがこの小説が位置するところなのでしょう。ウリポ出ですし。面白さを述べるのは難しいのですが、物語の途中で<何か>が起きます。その<何か>を推理/ディスカッションしていく手つきが、ミステリとしてべらぼうに面白いのです。結論というか、最後のページの仕掛けも、個人的には好みです。メタ性が溶け出すことによって、無化していくところが良い。
  • 最後に紹介するのは、<アルバート・サムスン>シリーズ最新作で連作短編集の『父親たちにまつわる疑問』です。自分は社会における死角を照らすような探偵小説がとにかく好きなのですが、この小説はそういう小説です。エイリアンと名乗る依頼人サムスンの元にやってくるのですが、社会から外れたものたちを見つめることで、サムスンは自身のことも見つめ直すことになる。エイリアンに向けた冷徹でいてあたたかな視線は、同じくエイリアンであったサムスン自身の心も溶かすのです。傑作と名高い『沈黙のセールスマン』を読んでから読むと、読後感もひとしおでしょう。そして、仮に『沈黙のセールスマン』が肌に合わなくても、本作まではぜひ読んでいただきたい。短編であることで、切れ味も増していますから。
  • 海外ミステリは他にも薦めたい作品がたくさんあるので、羅列します。『ブラックサマーの殺人』『キュレーターの殺人』はぜひ読んでほしいシリーズのひとつです。『阿片窟の死』も同様。一方シリーズを大伽藍で閉じた『精霊たちの迷宮』はレジェンド級の一冊でした。ジュブナイルからの伏兵『ロンドン・アイの謎』にファンタジーから『ガラスの顔』。そして『われら闇より天を見る』は最後まで気を抜けない、心震える一冊でした。

 

 

 



 

*1:ただし、つまらないので国内総合と国内本ミス部門は被らないように選定しています。

ジョン・スラデック『見えないグリーン』

ミステリ好きの集まり“素人探偵会”が35年ぶりに再会を期した途端、メンバーのひとりである老人が不審な死を遂げた。現場はトイレという密室―名探偵サッカレイ・フィンの推理を嘲笑うかのように、姿なき殺人鬼がメンバーたちを次々と襲う。あらゆるジャンルとタブーを超越したSF・ミステリ界随一の奇才が密室不可能犯罪に真っ向勝負!本格ファンをうならせる奇想天外なトリックとは。(公式あらすじ)

 端的に面白かった。解説で鮎川哲也も似たようなことを書いているが、まさかこんなにプロパーな本格ミステリを読めるとは思ってもいなかった。

 まずとても読みやすい。ざざっとテンポ良く書かれてある。方々に聞き込みにいったり、聞き込みが終わったら事件が起こったりと、派手なことをやっているわけではないのだが、すらすら読める。物語に無駄がないからこそのリーダビリティがある。脂の載った時期のクリスティのように洗練されたプロットといえば伝わるだろうか。

 またキャラクターのこれぞといったところ。<素人探偵七人会>なんて、まさにだ。決してキャラクター全員が立っているわけではないのだが、言動や行動の節々ににやりとしてしまう部分も多く、キャラに古臭さを感じることはあまりなかった。これまたクリスティを引いてきて申し訳ないが、彼女の小説に対し良く指摘されるキャラの平板さが、本作ではかえって読みやすさに寄与している。人間味がないわけではないのだが、一方で余計さもない。ミステリとして必要十分といってもいい。

 とはいえ『見えないグリーン』は本格ミステリなのだから、とにもかくにもミステリ部分が面白くないとどうしようもないだろう。しかしこれが良くできている。第一の事件における密室、第二の事件における転回、そして第三の事件における殺人模様。どれをとってもピカイチなのだ。

 まず第一の事件について。巻末に収録されている鮎川哲也による解説で、彼は以下のように述べてある。

なんとこれはわれわれが時代遅れだと否定した筈の機械的密室ではないか。しかもスラデックはロープだの針金だのという使い古された手段には見向きもしないで、奇想天外ともいうべき独創的な方法を発明しているのだ。(本書解説)

本作における密室は、奇想なのだ。鮎川哲也は、ここに至るまでに、いかにして密室トリックが心理的なものに移り変わったかという話をしていた。ロープがどうあって、ここで針金が引っ掛かって、ピタゴラスイッチになって……ということを言われても、よく分からんし面白みにかけるのではないか、それだったら心理的密室に分があるのではないか、ということを云ってるある。実際この論法はミステリファンにとっては聞き飽きたもので、とはいえ身につまされたものであろう。しかしその上で、鮎哲は云うのだ。本作でぶちかまされた機械的密室は素晴らしいと。

 たしかに本作のトリックはすごい。単純だからこそ魅力的な、そういうタイプの密室トリックが描かれている。そしてさらにすごいのは、密室が明かされるときの突飛さのなさだ。本作におけるこの奇想は、無理のある奇想として存在しているわけではない。ひとつのトリックとしてフェアプレイで解き明かされる気持ちよさの上に成り立っている奇想なのである。トリックの有り様も素晴らしい、ただそれだけでなく、どうしてそのトリックが使われていると分かったのかに迫っていく推理もまた素晴らしい。

 そして第二の事件。言われてみればそうとしか思えない、あるキャラクターにまつわる「なぜ」を手がかりに、全貌をすっと解きほぐしていく推理には脱帽せざるを得ない。法月綸太郎が『盤面の敵はどこへ行ったか』で指摘しているチェスタトンの影響を、特に感じさせる事件の運びもまた巧みだ。

 最後に第三の事件。これもまた、言葉遊びのような手掛かりから、するするっと解きほぐされていく。あの解決を読んだときに、わたしは都築道夫の云う「論理のアクロバット」を思い出した。都築道夫はこのアクロバットの説明に、あるいはパズラーの面白さの具体例として、『獄門島』におけるある言葉遊びを引き合いに出している。

こういう〔「本陣殺人事件」における三本指や、『獄門島』における言葉遊び〕登場人物の(つまりは読者の)錯覚を、作者がたくみに利用して、あとでアッといわせるところを、私は「論理のアクロバット」と呼んでいますが……。

『黄色い部屋はいかに改装されたか』(〔〕は筆者による注)

 第三の事件では、このアッという楽しみが味わえる。

 ちまちまとレジェンドたちによる様々な評価を引用してきたわけだが、つまりは『見えないグリーン』は本格ミステリの良くできたおせちだということを言いたかった。第一の事件では奇想天外な密室トリック、第二の事件ではチェスタトンのような転倒したロジック、そして最後の事件では都築道夫の云うアクロバットが楽しめるのだ。 

 そして全編にわたって、パズラー小説に対する批評のような会話が繰り広げられている。スラデックによるミステリ観は、今なお全くもって古びていない。それは本作が現役の本格ミステリとして楽しめることで証明されているであろう。

 さいごに、以下の記事を引用したい。

第52回:『見えないグリーン』(執筆者:畠山志津佳・加藤篁) - 翻訳ミステリー大賞シンジケート

 この記事の最後で、杉江松恋氏がコージーミステリのはしりとしての『見えないグリーン』について触れてある。

 自分はコージーの大元を恥ずかしながら知らなかったのだが、ここに書かれているとおり、コージーというものが「古典探偵小説へのオマージュとして、純粋な謎解きを楽しめる作品を読者に提供しよう」ということであったのならば、ここまで書いてきたとおり、本作以上の適作はないだろう。